第10章 – 認 知(2)

文字数 803文字

 認 知(2)



 彼はその前日、長い間休職扱いになっていた会社へと出向き、

 やっと正式に辞表を出した。

 不思議なことに、あれほど厄介者扱いしていた順一を、

 社長自ら必死に慰留してきたのである。

 しかし彼は残りの人生を、

 もうこれ以上会社の仕事などに費やしたくなかった。

 だから終いには、床に頭を擦りつける経営陣に向かって、
 
 一言だけ告げ、すぐ背中を見せていたのであった。

「わたしは二度と、もう金輪際、あなた方の下で働こうなどとは、一切思えま
 せんので……」
 
 我ながら偉そうなことを言ったものだと、

 彼はすぐにその言葉を後悔していた。

 そして本来であれば、一番最初にすべきだったことを、

 彼はいまだにできないでいたのである。

「たまに連絡あるよ……だいたいメールなんだけど……」

 今、住んでいるところは、

 海の近くでいいところだと、彼女が伝えてきたのだそうだ。

「今度3人で行ってみようよ……黙っててさ、いきなり尋ねて、驚かせてやろ
 う!」

「じゃあ、その前に住所くらいは聞いとかないとね……案外、海外だったりし
 てさ」
 
 品川までの道すがら、ふたりはそんなことを順一へと言ってきた。
 
 ――お母さんに、会いに行かないの?

 そんな問いに順一は、とうとう何も言い返せないままだった。
 
 本来、一番先にすべきこと、

 それは佐和子に会いに行くことに違いなかった。

 戸籍上はいまだ、しっかりと夫婦であるはずなのだ。

 しかし果たして、もう二度と佐和子と会うことはないのだと、

 順一は心に強く感じていた。

 あの雨の日に感じた憎悪、

 あれは今でも、順一の身体のどこかで燻っているようであった。

 それに、たとえ彼がそんな感情を忘れ去ったとしても、

 佐和子の方がきっとそうではないだろう。
 
 ――どうして、また、そこに行くの……?

 そう聞いて来た武はもしかすると、

 二度と戻ってこないかも……そんな恐れを感じていたのかも知れない。
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