第1章 - 喪 失(5)

文字数 1,559文字

 喪 失(5)



 それは美穂子本来の匂いではなく、明らかに化粧品から漂うもの……

 そんな香りが、さらに飯島の心を震わせていたのであった。

 きっと、母親との思い出の一部なのだろう。

 ここまで心震える悲しい思い出が、必ずや過去の自分にあったに違いない。

 彼はそんなことを感じてやっと、顔を上げる努力を始めるのだった。

 そしてそんな出来事のあった次の日、

 飯島はこれまで感じていたことすべてを、正直に訴える決心をする。

 即ち店を繁盛させるため思いつく手立てを、

 一気に美穂子へと話し聞かせていくのであった。

「例えば昨日の肉じゃがですよ。今じゃカラオケだって物凄い料理を出すんで
 す。でも、そんなのに対抗したって仕方ないから、こっちはおふくろの味、
 家庭料理で勝負したらどうでしょう?」

「家庭料理なんて、家でいくらでも食べれるじゃない? こんなところに来
 て、わざわざお金まで出して食べたいなんて思うかしら……?」

「いいですか? 弁当屋の惣菜が、なんであんなに売れると思います?あれ買
 うのって、独身男なんてほんの一握りなんですよ。もう今や、家庭料理が存
 在しない家なんて、ニッポンにはたくさんあるんです……だからあとは味と
 値段だけですよ」

「へぇ そんなものかしらね……」

 半信半疑の美穂子であったが、

 初めて見る飯島の饒舌に、心動かされたことは事実であった。

 それからはふたりして閉店後、

 美穂子の作るさまざまな家庭料理を味見していった。

「わたしだってね、いい奥さんになるんだって、頑張ってた頃があったの
 よ……」
 
 そう言う美穂子の料理はどれも素晴らしく、

 思った以上の値段で出せそうであった。

 それから彼は、抜かれていた電球を買い足し、

 かなり暗かった店の照明も明るくした。

「ママは明るい照明の下で、今のように微笑んでいた方が素敵ですよ……」

 明るいと皺が目立つからと言う美穂子に向かって、

 飯島は心からそんな台詞を口にするのだった。

 そしてさらに、休みの日には中古家具などを見て回り、

 赤黒く変色し今にも破けそうなソファを、彼はひとつひとつ換えていった。

 結果、大きさやその形はさまざまであったが、

 逆にそれが洒落た雰囲気を醸し出し、

 客が席を選ぶ楽しさにも繋がるようになっていった。

 一方、オーナーである前田は、

 弁当屋の利益を食い潰すスナックに興味などなく、

 売り上げに繋がることだったら何をしてもいいと、常々言ってくれていた。

 そんな日々の繰り返しを経て、店は次第に賑やかさを取り戻していく。
 
 もちろんこれまで通り、美穂子目当ての客がいないわけではなかったが、

 格段に増えたのは家族連れと、ひとりで訪れる単身の客であった。

 家族連れはやはり美穂子の料理目当てで、

 もともとゆったり座れるスペースが好まれ、

 土日はほとんどそんな客層で埋まってしまう。

 ただ単身の客については、

 美穂子もどうして増えているのかが分からなかった。
 
 一度訪れた客が、かなりの確率で再びやってくるのだ。

 そしてある夜、閉店後美穂子が飯島に言ってきたのだった。

 ――余計な口は挟まない、しかし一度話しかければ、
   しっかりとしたリアクションを返してくれる。
 
 さらに見ていないようでいて、スッと痒いところに手が届く心遣い……。

「そんな感じのこと言ってたわ……さっきのお客さん、なかなかできるものじ
 ゃないってね。あんたって、ホント何してた人なんだろうね?」

 そんな飯島は美穂子にとって、

 まさにバーテンダーに打ってつけに映るのだった。

「もしかしたら以前の僕も、本当に、こんな商売していたのかも知れません
 ね……」

 そんなことを言って微笑む飯島は、少しだけ痛む胃を押さえながら、

 消え失せてしまった記憶の断片へと思いを馳せるのであった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み