第1章 - 喪 失(4)

文字数 1,121文字

 喪 失(4)
 


 それから結局、一度も店に顔を出さない前田の代わりに、

 美穂子の言葉と置かれていた教本を頼りに、

 飯島は仕事を懸命に覚えていった。

 やはり店はだいたいにおいて暇で、

 閉店まで客がいついたことなど滅多にない。

 これでよくつぶれないものだと、彼は心から思っていたのだ。

 しかしそんな状態であったお陰で、美穂子が驚くほど早く、

 飯島は一人前と言えるレベルにまで達していった。

 一方、40歳になろうかという美穂子は、

 若い頃はそれなりに人気があったろうことを思わせた。

 しかし顔自体は十人並みで、この店をその人気(色気)だけで支えるのは、

 もう限界を超えているのは明白なのだ。

 そんな美穂子が、ある夜飯島へ言ってきたのである。

「飯島さん……もし良かったら、これ持って帰って食べてよ……」

 閉店後、美穂子がそう言って、

 プラスチック製の容器に入った肉じゃがを差し出したのだ。

「別に、あなたを口説こうってんじゃないのよ。あいつが好きだからって、た
 くさん昨日作ったんだけどさ……あの野郎、どっかに泊まって帰ってこなか
 ったのよ」

「お好きなら今夜にでも、また出して差し上げればいいじゃないですか?」

「昨日は定休日だったからね。でも最近は、こんなに遅い時間になると食べな
 いのよ。太るからだってさ……笑っちゃうわよね」

 そう言って美穂子は、いかにも寂しそうに笑うのだった。
 
 だから彼女はここ数年、仕事から帰っていつもひとり、

 遅過ぎる軽い夕食を取っているのだそうだ。

「ママって、こんなの作ったりするんですか? 意外ですね」

 飯島はそんなことを呟きながら、容器の中のジャガイモを一つまみすると、

 そのまま口の中へと放り込んだ。

 すると冷たいジャガイモが口の中で崩れ、

 甘くて優しい味が口一杯に広がる。

 飯島にとって、それがどれほど久しぶりの肉じゃがであったのかは、

 実際のところ分からない。

 しかし不思議なほど心が震え、

 彼は立っていることが出来なくなってしまうのだった。

「いったい……どうしたのよ……?」

 ソファに座りくぐもった声を漏らす飯島に、

 美穂子は静かにそんな声を掛けた。

 そして返事のない彼へと歩み寄り、その隣へと腰を下ろす。

 その頬を彼の肩口へと押し当て、

 そっと掌を飯島の手の甲へと重ね合わせるのだった。

 その時飯島は不覚にも、

 美穂子の体温を感じながらに声を上げて泣いていた。

 美穂子はその間何も言葉にせず、

 ただじっと彼の震えだけを感じていたのである。

 彼はなぜ自分が泣いているのか、

 この慟哭の意味がまるで分からなかった。 

 しかし美穂子の息遣いを耳元で感じながら、

 その匂いに一種、懐かしい何かを見いだしてはいたのだ。
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