第7章 – 土砂降り 〜 2010年 3月末(6)

文字数 1,158文字

 2010年 3月末(6)



 事故が原因でこの世に産み出されなかった胎児は、
 
 間違いなく、順一と佐和子の孫となりえる存在だった。

 そしてその後、その医者は一言二言付け加えただけで、
 
 硬直している順一を横目に部屋を出て行ってしまう。

 果たして佐和子は、
 
 順一の説明をどこまで理解していたのだろうか? 

 彼が恐る恐る「妊娠」と告げた頃から、
 
 話など耳に入っていないように見えていたのだ。
 
 そして......彼の言葉が途切れ、
 
 部屋に一時の静寂が訪れた時、佐和子はおもむろに立ち上がった。
 
 さらに3人が驚いて見守る中、彼女はいきなり部屋を飛び出す。

 唯の病室の少し手前で、順一にその行く手を遮られて初めて、
 
 そのショックを声にしたのである。

「そんなばかな話がありますか!? 離してください!! 直接、直接わたしが
 あの子に聞いてみますから!」

「ちょっと待ってくれ! 今そんなことを聞いてどうするんだ!」

「何かの間違いに決まってます! あなたには分からないんです! だから離
 してください!」

 しかし何を言ってこようと、
 
 順一はそれを許すわけにはいかなかった。

「今は何も言うべきじゃない! 今は本人が一番苦しんでるんだ! そんなこ
 とも分からないのか!?

 そう言って順一は力の限り、
 
 佐和子の身体を抱きしめるのであった。

 そっとしておいて欲しい――佐和子は昔からそんなことが、
 
 なかなか理解できないところがあった。

 それはひとりっ子であるがゆえのことなのか、

 それとも、自分本位のまま、

 その生涯を全うしかけている父親からの遺伝であるのか......、

 まず相手の立場を思いやる、

 そんなことが多少......苦手ではあったのだ。

 そうして、順一の言うことなど聞こうとしない佐和子へ、

 和子がいきなりの平手打ちを見せる。

 普段大人しい和子にしては、想像以上に激しいものであった。

 結果、次の瞬間、佐和子の号泣する声が響き渡ったのである。

 佐和子は和子と武に支えられ、タクシーで実家へと帰っていった。

 ひとり残った順一はそうなって初めて、

 唯の病室へと足を踏み入れた。

 目を閉じている唯の顔そのものは、

 まるで小さい頃と変わらないように見えた。

 首から下が、白い蒲団で覆われているせいか、
 
 小学生の頃となんら変化ないようにも思えるのだ。

 しかし現実はそうではなかった。
 
 恐らく昨日の朝の時点では、
 
 唯の身体に、新しい命が宿っていたはずなのだ。

 そして一時、目を覚ましたらしい唯は、
 
 既に順一の前で3時間眠り続けている。

 だから彼女は今はまだ、子供が流れてしまったことを知らされてはいない。

 それどころか、妊娠という事実さえも知らなかったのだとしたら、
 
 いったいそれを、どう伝えたらいいのか……?
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