第4章 – 現れた女(15)

文字数 1,079文字

 現れた女(15)



 以前もきっと、こう考えたんだと思うのだ。

 記憶を失う前の自分も、愛すべきものなど持ち合わせていなかった……

 そして恐らく、愛されてもいなかったのだろう。

 だから彼は、その場から逃げ出すことができた。

 飯島はそんな風に感じて、じっとその時を待つことにしたのである。

 とにかく、由香とはこれ以上親密になるわけにはいかない。

 されど、その日が訪れるまでは、

 あまり悲しい思いをさせたくもなかった。

 しかし、そんな均衡が崩れ去る日が、意外にもすぐに訪れる。
 
 それはさらに3ヶ月ほどが経過した、

 まもなく9月を迎えようという頃だった。

 飯島は前日から具合が悪く、薫からは何度も、

 早終いして帰った方がいいと言われていた。

 しかし結局いつも通り働き、家に着いた頃には予想以上にフラフラだった。
 
 ただ、幸い翌日は定休日。

 だから部屋に入ると、さっさと敷き蒲団だけを引っ張り出して横になる。

 部屋の中は蒸してはいたが、それでも真夏の頃よりは幾分楽で、

 彼はあっという間に眠りに就いた。

 翌日目を覚ますと、身体中の節々が痛み、

 そこそこの熱が出ているのだと分かる。

 ずいぶん変な夢を見たような気がするが、

 目を覚ました途端、それがどんなだったか分からなくなっていた。

 彼は何時頃だろうと、腕時計に目をやる。

 ずいぶん日も高いように思えたが、まだ8時にもなってはいなかった。

 汗びっしょりで、首から背中へと汗がしたたり伝わる。

 気持ち悪かったが、どうにも着替える気にはなれないのだ。

 このまま寝ていようとも思ったが、

 喉がカラカラで、トイレにも行きたかった。

 飯島はひとり小さな掛け声と共に、なんとか上半身を起こしていく。

 身体が鉛のように重く、

 それはまるで、畳の中へと沈みこんでしまうような感じなのだ。

 それでもトイレまでは辿り着き、フラフラしながら用を足した。

 コップに注ぐ手間を思い、彼は水道の蛇口へと口を寄せ、

 そのまま手を伸ばしカランを捻った。

 すると、蛇口から勢いよく水が飛び出し、

 一気に喉元まで、大量の水を被ってしまった。

「くそ!」

 思わずそんな声を出す彼の胸元から、

 ズボンのままの下半身に水がしたたり、服を濡らした。

 着替えなければ――咄嗟にそう思うのだが、

 濡れた服のまま動くことが嫌だった。

 足元も水浸しで、水道はいまだ流れっ放し。

 そんな飯島を取り巻く状況に、それはあまりに的確に響いたのである。

「いつまでそうしてるんですか!? さっさと着替えないと!」

 そう言いながら、声の主は玄関から颯爽と現れ、

 まずは水道の水を止めた。
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