第7章 – 土砂降り 〜 2010年 3月末(23)

文字数 1,104文字

 2010年 3月末(23)



 それは、順一が退院する前日のこと。

 彼は退院の報告へと、唯の病室を訪ねていたのである。

 しかし唯は相変わらず、順一の来訪にもなんの反応も見せようとしない。

 その時も、入り口とは反対側にある、

 大きな窓からの景色に目を向けているのだった。

「父さん、明日……一足先に退院することになったんだ」

 順一がポツリとそう声にして、丸椅子へと腰を下ろそうとした時だった。

 痛みに耐えながらだったせいか、

 彼は目測を誤り、そのまま床に尻餅をついてしまう。

「うあっ!」

 全身に電気が走り、思わず大声を上げてしまうのだ。

 尻から伝わる振動が、

 身体中の傷めた部分を大いに刺激したのである

 うるさい! 

 一瞬、そんな声があると思った。

 しかしそう感じて見上げる順一の目に、

 振り向いた唯のくしゃくしゃな顔が映る。

 唇が震え、その目は涙で一杯だった。

 そんな唯が何事かを言いかけ……順一は思わず、唯の言葉を制していた。

「今は、何も言うな……いいんだ、今はとにかく、早く、元気になることだけ
 を考えていればいいから......」
 
 そのあとにも、順一には伝えたい言葉がたくさんあった。

 しかしそんな言葉を口にする前に、

 唯は再び窓の方へと向き直ってしまう。

 そして、順一へ背中を向けたまま、その肩を小刻みに揺らし続けるのだった

 その時、唯の涙がなにゆえものなのか、

 本当のところ、何も分かっていなかった。

 だから声を押し殺し、涙する娘の背中を見ながら、

 ただただ不憫に感じていたのであった。

 ところがそんな唯の涙には、それなりの理由が存在していたのである。

「ごめん……僕、話しちゃったんだ……でも、詳しくじゃない。父さんがどう
 してこうなったのかってとこだけ、話した方がいいかなって、思ったん
 だ……」
 
 順一の前で唯が涙を見せたことを伝えると、

 武がそんなことを返してきたのだ。

 その日の朝、唯は武から初めて、

 父親の奮闘についてのおおよそを聞いていた。

 しかしその時はただ押し黙り、なんの感慨もないように見えていたそうだ。

 けれど順一に涙を見せたその日から、

 唯は少しずつ言葉を交わすようになる。

 そしてぎこちないものではあったが、

 時折笑顔も見せるようになっていった。

 佐和子は相変わらず実家にいたが、

 それでも何度か、病院にも顔を見せたらしい。

 このままいけば、少なくとも元の生活が、

 じきに戻ってくるように思えていたのである。

 ところがそんなある時、ふと、唯が信じられない言葉を発する。
 
 それはまるで、宿題を忘れていたと打ち明けるかのように、

 ポツリと......順一へと告げられるのだった。
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