第7章 – 土砂降り 〜 2010年 3月末(17)

文字数 973文字

 2010年 3月末(17)



「消せ……約束通り……消してくれ!」

 そんな言葉と共に口の中から、何かが「ポトン」とこぼれ落ちた。

 それは血だらけの唾液に混じった、いくつかの白い塊であった。

 奥歯がずいぶん弱ってきてますよ……確か行きつけの歯医者に、

 そんなことを言われたことがあったような気がする。

 まだ、口の中にあったのか……呑み込まなくて良かった……。

 そんなことを思いながら、彼は懸命に起き上がろうとする。

 しかししっかり二本足で立ち上がる前に、次の衝撃が襲いかかるのだ。

 もうダメか……何度となくそう感じながら、

 彼は起き上がろうとする意思だけは、不思議なほど持ち続けるのであった。

「消せ……消してくれ!」

 倒れてはそんな声を発し、

 無理やり起こされ、

 殴られ再び倒れても起き上がろうとする。

 彼は人生で初めて、ぼろ雑巾のように叩きのめされ、

 きっと一生分のアドレナリンが放出されたのだ。

 ある時から、彼の意識は痛んだ肉体から離れ、

 ある種、「覚醒」を見せ始めるのであった。

「消すと約束しろ……二度と……娘と会うな……」

 彼がこう口にした時には、既に顔はその原形を留めてはいない。

 しかしそんな顔つきになっても、

 彼はしっかりふたりを睨みつけているのだった。

「まるで、ゾンビみたいだな……」

 そんなジョンの声に、巨漢の男もぎこちなく笑ってみせた。

 しかしふたりの顔には、

 楽しげな雰囲気などまるで残ってはいない。

「殺せ……そうしないと……いつまでもつきまとってやる……だから、殺
 せ……」
 
 血反吐と共にそう声にする順一を前にして、

 ふたりから次第に笑顔が消え去っていく。

 ――殺せ......。

 この言葉を最後に、順一の意識は限界を超えた。

 しかし消え去った思念の片隅で、

 その台詞は何度も何度も叫ばれ続けるのだ。

 殺せ!  殺せ!  殺せ!

 そんな己のうわ言によって、

 順一は再び、目を覚ますことができていたのである。

 そして今、どこか遠くで、救急車のサイレンが聞こえている。

 もはやまともに機能しているのは、聴覚だけのような感じだった。

 殺されはしなかったが、このまま放っておかれれば、

 いずれ同じ道を歩むことになるような気がしていた。

 ここは……どこなんだろう?

 そんな意識を最後に、

 順一は再び、深い眠りへと落ちていくのであった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み