第9章 – 覚醒(8)

文字数 850文字

 覚醒(8)
 


 表札の名前が違っていた。

 それは既に岩井ではなく、知らない苗字に変わっているのだ。

 しかし、間違えるはずがなかった。

 絶対にここだという記憶が、すでに彼にはしっかりと戻っていた。

 ――売っ払ったのか!?

 すぐにそんなことが思い浮かぶ程度には、

 そこそこ状況を理解したのだ。

 あのあと、家族はいったいどうなったのか? 

 そんなことを知るために、彼は新宿で少しだけ寄り道をしていた。

 そしてようやく見つけたインターネットカフェで、

 過去の新聞を調べていたのだった。

 しかし翌日はおろか、それ以降ひと月に渡って、

 それらしい見出しは発見できない。

 ――あれから……2年半も経ってるんだ……。

 ただ現れ出るすべての日づけが、

 そんな時間の流れだけを、しっかりと教えてくれたのだ。

 彼は未明にアパートを出たあの夜、

 上着に入っていた財布の金でタクシーに乗っていた。

「駅まで行ってください……」

 そう告げたタクシーが到着したのは、

 海岸線にほど近いとある駅だった。

 ――お袋の、ここは生まれ故郷じゃないか……どうしてこんなところに?

 そこは紛れもなく、一度だけ訪れたことのある玲子の生まれた街。

 彼は車から降りると、思わず駅を背にして振り返る。

 しかしだからといって、彼が見知った風景などありはしないのだ。

 それから彼は愕然とした気持ちのまま、

 駅前の居酒屋で時間を潰し、始発に乗って東京へと向かった。

 助かったんだろうか? 

 順一はふと、その可能性を考えてみるのだ。

 しかしそんなことはあり得ないと、

 脳裏に浮かび上がる光景が、その可能性をすぐに打ち消すのだった。

 土砂降りの雨が、ドクドクと流れ出る血液で染まり、

 まるでそこだけがペンキをぶちまけたように赤かった。

 あんな状態で放っておかれれば、どう考えても助かるはずはない。

 ――どうしてあいつが来たんだ? いったいどうして……?

 我が家であったはずの家屋から離れ、彼はただ、目的もなく歩きながら、

 そんな疑問への答えを考え続けるのだった。
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