第7章 – 土砂降り 〜 2010年 3月末(3)

文字数 864文字

 2010年 3月末(3)



「いいか……ゆっくりだぞ……」

 そんな順一の声に呼応するように、武は大きく息を吸い込む。

 彼はすぐに状況を悟り、順一の言うままに唯を抱きかかえていた。

 そして空港まで乗っていくつもりだった車へと、

 ふたりで唯を運び入れる。

「母さんの携帯に電話して、お義父さんの病院まで来るように言うん
 だ! いいか! 何よりも優先して来るように、必ずそう伝えるんだぞ!」

 後部座席に唯を寝かせ、

 順一は武にそれだけ言ってエンジンを掛ける。

 明らかにただごとではなかった。

 後部座席のグレー色のシートが、みるみる赤く染まり広がっていく。

 ――助かってくれ。

 さっきまでの冷めた気分がまるで嘘のように、

 順一の心は今や娘のことで一杯だった。

 車で病院の玄関に着くと既にストレッチャーや看護師数人が待機していて、
 
 あっという間に唯をどこかへと連れ去った。

 きっと佐和子が義父へ電話して、

 うまい具合に準備をさせたのであろう。

 それから数分後、順一はひとり、急患用待合室で待つこととなる。

 そして暫くすると隣には、

 知らぬ間に武が腰を下ろしているのであった。

「姉ちゃん、どうなの……?」

 そんな問いかけで初めて、順一はその存在に気がついたのだ。

「分からん……何も分からんよ……いったい、何がどうなったんだか……」
 
 順一は思わず、その呟きが息子からであることも忘れ、

 頭を抱え、震える声で答えていた。

 そんな動揺する父親の姿を、

 武は初めてちゃんと見たような気がするのだ。

 まるで感情がないように映っていた父親が、

 最初にそれを窺わせたのは、警察にいる武を迎えに来た時だった。

 しかしそんな姿もその場だけで、次の日には消え失せる。

 ヒステリックに叫ぶ佐和子を前にして、

 武に話していたことなどオクビにも出なかった。

 しかしそれでも、遠い存在に感じていた父親にも、

 自分と同じように、悩み多き青春時代があったことを知った。

 そのことで少しだけだったが、順一に対して父親というより、

 同じ男としての親近感を覚えてはいたのだった。
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