第8章 – 献身 〜 2012年 11月(2)

文字数 1,251文字

2012年 11月(2)



「いつもなら、出入りする人の顔を、ちゃんと確認してから自動ドアを開ける
 んですが、それでもきっと、お婆ちゃんだって、気づかなかったんです
 ね……」
 
 連れ帰ったふたりに対し、施設の担当者はそう言って頭を下げた。

 そこは最近新しくできた、認知症専門の特別養護老人ホームであった。

 基本出入りは、

 担当者がスイッチを捻らなければできない仕組みになっている。

 ところが何かの拍子にあの老女は、

 まんまと通り抜け果せてしまっていたのだ。

「どうして分かったんだい? やっぱりあの厚着で……?」

「それもあるけど、同じ動作をずっと繰り返していたの……それと顔つきか
 な? 何も感じてないっていう表情してた、ずっと……だからおかしいなっ
 て思ったんです」

 そう言って薫は振り返り、ベッドに横たわる老婆へと手を振った。

 薫の母親は癌で死んだと聞いている。

 けれどもしかすると、多少認知症の症状が現れていたのかも知れない。

 そんなことを思わせるほど、

 薫の老婆に対する優しさには、熱のこもったものを感じるのだった。

 ――さて……ここからどうやって帰ろうか……?

 そんなことを考えながら、

 再び老婆へと歩み寄る薫を、彼はぼんやり眺めていたのである。

 すると不意にどこからか、人の呼び声が聞こえてくる。

 耳を澄ますとそれは、微かに通路から響いているようなのだ。

 ――助けてくれ? そう言ったのか……?

 そんな思いとともに、飯島は部屋の外に出ていった。

 しかしいくら耳を澄ませても、既にそれらしい声は聞こえてこない。

 勘違いだったのかも知れないと、再び薫の元へと戻りかけた時だった。

 そこは扉3つ分くらいに渡って、

 壁の代わりにベージュのカーテンで覆われていた。

 そしてそのカーテンの奥に中腰のまま、

 じっと動かずにいる老人の姿が見え届く。

 右手だけで棒状の手摺りを掴み、

 老人は異様なほど、必死の形相を見せているのだった。

 他に……誰もいないのかな?

 そんなことを思って覗き見るが、

 半開きとなったカーテンの隙間からは、介助者の姿はどこにもない。

 飯島は不審に思って、足を忍ばせ近づいた。

 するとその危うい状況のおおよそを、

 彼は瞬時に理解することができるのだった。

 そこは入居者専用のトイレだった。

 老婆の部屋の隣に、広々とした身障者用トイレが設置されていたのだ。

 老人はズボンを足首まで下げ、その姿のまま表へと出ようとしていた。

 懸命に手摺りを掴み、己の足を少しでも、

 前へ出そうと格闘していたのである。

 危ない! 

 飯島は心だけでそう叫んた。

 そして無意識のうちに、自らその中へ走り込んで行く。

 するとそれを待っていたように、老人の脚がカクンと崩れた。

 さらに走り込んだ飯島に向かって、勢いよく倒れ込んでくるのだ。

 彼は倒れ込む老人を抱きかかえると同時に、

 走り込んだ勢いのまま、足を滑らせ真後ろへとひっくり返る。

 結果、彼は老人を抱きしめながら、

 後頭部を嫌というほど打ちつけてしまうのだった。
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