第5章 – 崩壊(3)

文字数 728文字

崩壊(3)



「お宅の部下たちは、俺のお袋が、呆け始めたのを知ったうえで、ハンコを押
 させやがったんだぞ!」

 そう言って怒鳴る男は、順一よりもかなり年上に見えた。
 
 その隣で微笑む老女の様子は、
 
 明らかに健常者の印象を持ち合わせてはいないのだ。

 80歳を優に越える老婆は、
 
 長い間、大きな屋敷にたったひとりで暮らしていた。
 
 そして息子の方は遠い都内の高級マンションに、

 妻とふたりだけで住んでいたのだ。

 息子は言っていたのである。

「確かに、長い間放っておいたんだ。お袋が呆けているのにも気づかず、女房
 の言う通り近寄りさえしなかった。だからといってだ……こんな詐欺みたい
 な話、黙っていられるかよ!」

 契約の内容は、決しておかしいものではない。
 
 しかし彼が怒るのも無理はないと、順一は素直に思うことができた。

 母親を捨てろ......と言う妻に、従い続けた男は役所からの電話で初めて、

 生みの親の変わり果てた姿を目にしたのだった。

「屋敷中がくそだらけでな……その臭いが風に乗って近所に届いたんだろ
 う。 あの、嫌になるほど潔癖症だったお袋が、まったく信じられなかった
 よ」

 そして息子さえ忘れてしまった家主は、

 都内の高級老人ホームへ入所することになるのだそうだ。

 終いに男は、床に頭を擦りつけんばかりに詫びる順一へと、

 そんなことまでを話し聞かせる。

 一方順一は、今一度ゼロから交渉させて欲しいと、

 ただそれだけを男へと頼み込んだ。

 こうなってしまえば、多少のスケジュールの遅れはどうしようもない。

 とにかく買収が完了しさえずれば、あとはなんとかなる自信はあった。

 ところがそうはいかないのである。

 まさにそれからが、順一にとっての戦場となった。
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