第10章 – 認 知(11)

文字数 921文字

 認 知(11)
 


 そして今いるこの部屋にも、

 同じように忘れたかった自分がいたはずなのだ。

 今はもう思い出せないそんなことを、順一は何もなくがらんとした部屋で、

 ひとりじっと考え続けていたのであった。
 
 部屋には女性の匂いなど感じられず、強いて挙げるとすれば、

 冷蔵庫にあった手作りであろう惣菜くらいだった。

 そんな惣菜を、どう考えても自分が作ったとは思えない……。

 少なくとも、一晩だけというわけではないらしい。

 そんな関係であろう女性も、今や彼にとっては、

 一番厄介な存在となっていたのである。

 たとえ、それがどんなに素晴らしい女性であったとしても、

 彼にはその欠片さえ思い出すことができないのだ。

 そして......そんな記憶を呼び覚ますような何かに、

 出会ってしまうことを避けなければならない。

 しかし一方で、これまでの人生全てを忘れ去った生活に、

 まったく未練がないかと言えば、必ずしもそうではなかった。

 きっとそんな気持ちが、

 ここでしばしの時間を使わせていたのであろうと感じて、

 彼は意を決して立ち上がる。

「さ……片付けるか……」

 あえてそう声に出し、すべき行動への道筋を付けるのだった。

 基本、持ち帰るべきものなどない。

 荷物を確認し、整理したあとは、

 表の看板にあった不動産屋へと連絡をする。

 そして言われただけの金を払い、心からの礼を表現するだけだった。

 あとは何も聞かずに立ち去るだけでいい。

 だから彼は台所続きの部屋を片付け、隣の部屋へと移るまで、

 そんなことになんの疑いも持ってはいなかった。

 そういえば……ここ何年も、小説なんて読んでなかったな。
 
 そんなことを思う順一の視線の先には、

 200冊はあろうかという文庫本が積み上げられている。

 その中には、順一が以前、好んで読んでいた作家の名前もあった。

 彼は積み上げられた一番上へと手を伸ばし、

 懐かしそうにその覚えのある1冊を掴み上げる。

 ――どうしてこれが……?

 そんな感情と一緒に、そのストーリーがみるみる蘇ってくる。

 ――確かこの本が、キッカケだったんだ……。

 彼の脳裏に、本にまつわる懐かしい記憶までもが、

 しっかりと蘇り浮かび上がってくるのであった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み