第1章 - 喪 失(2)

文字数 2,719文字

 喪 失(2)



「いいのかい、飯島ちゃん! いつもいつもすまないねえ!」

 受話機から響き渡る、オーナー前田正弘の大きな声だった。

「飯島さん、たまには断ったっていいんですよ! ここんとこずっとじゃない
 ですか!」

「お! 由香ちゃん……マジだねえ! 飯島さんのことになるとさあ~」

「何言ってるんですか? 飯島さんはここんとこ毎日早番で通しですよ! た
 だでさえ公休出勤ばっかりさせてるのに……そうだ! 八木さん、代わって
 あげてくださいよ! この間ズル休みしたんだから、ちょうどいいじゃない
 ですか!? ね!」

 チャチャを入れた八木祐一という若者は、

 由香にそう言われてぺロッと大きな舌を出す。

 そんなやり取りに、飯島はただ黙って笑顔を見せていた。

 そこは役所から紹介された弁当屋で、弁当だけではなく、

 グラム売りの惣菜が人気の、そこそこに大きな店構えであった。

 勤め始めた数週間は、きっとすぐにでも首になるに決まっていると、

 店の誰もが思っていたに違いない。

 彼はほとんど口を開かず、言われたことをこなしはするが、

 言われなければただじっと、辺りを見回してばかりだったのだ。

「まるで亡霊みたいだったよ……もう不気味でさ」

 口は悪いが人は決して悪くない八木祐一は、

 その頃の飯島をそう表現しては笑った。

 そんな飯島が辞めることなく、勤め始めて既に半年が経過している。

 それはひとえに、

 何かと飯島を気にかけてきた山田由香のお陰だった。

 同じパート仲間である山田由香は、28歳という若さで既にバツ1で、

 年老いた母親とふたりで暮らしていた。

 大学を卒業し、そのまま東京で就職。

 そこで知り合い、付き合った男と1年で結婚したはいいが、

 たった半年で破局となる。

 男のたいそうな束縛と、

 思い通りにならないと癇癪を起こすという未熟さが、

 若い由香にはどうにも我慢できなかった。
 
 そんな男とのことがあったせいか、

 飯島の、全てを受け入れるような控えめな態度に、

 由香は次第に好感を覚えていった。

 さらに彼女は、飯島が働き始めたばかりの頃、

 ぼんやりしているように見えていた理由に、

 いち早く気がついていたのである。

 ――この人、もう流れを把握している……たった1回教えただけで、

 どうしてこんなにスラスラ並べられるの?

 由香のそんな驚きは、やがて店内のパート全員へも広がっていった。

 飯島は手が空く度に、常にそんな段取りに目を向け続けていたのだった。

 何も分からない新人とはいえ、

 ただでさえ得体の知れない中年男なのだ。

 一度教わったことを、何度も気軽に聞くわけにいかない。

 きっとそんな感じのことを思っていたのだろうと、

 由香はますます、飯島のことが気になっていった。

 記憶喪失になる前は、いったい何をしていたのかと、

 そんな想像を楽しむまでになっていく。

 そしてある日のこと、パートの中年女性が思わず彼に、

 間違ったことを指示したことがあった。

 ――あ、それ違うんじゃない!?

 耳に入ったその配送先が、1週先の注文じゃないかと、

 由香はふと思ったのだ。

 しかし注文表を見ながらのことであろうと、

 彼女はあえて確認などしなかった。

 結果、飯島の作った弁当100個が、行き先のない物となってしまう。

 彼に言いつけたパートは、自分のミスに気がついているはずだった。

 しかしそんな本人はおろか、誰もその出来上がった弁当について、

 なんの言及さえしようとはしない。

 飯島は渡されていた注文表をじっと見つめ、

 どうすべきかを考えているようだった。

 そして弁当が出来上がって30分が経過した頃、

 いきなり彼は行動を起こす。

 突然、由香へ自転車を貸して欲しいと言い、

 その荷台に運搬用ケースを括り付けた。

 そのケースを弁当で一杯にして、何も言わずどこかへと走り去ったのだ。

 彼はそれから三十分ほどして、ケースを空にして戻ってくる。

 そうして再び、空のケースに弁当を乗せ始めるのだった。

 思えば時刻はそろそろお昼時……。

 どこかで売ってるんだ! 

 突然そう閃いた由香は、おもむろに売り場に置かれていたテーブルを、

 ひとりで店の外へと引っ張り出した。

 店の前を通る広い歩道で、残った弁当を100円引きで売り始める。

 結果、2500円ほどの値引きこそ発生したが、

 見事100個の弁当は完売できたのだ。
 
 その日から、由香以外の従業員たちも、

 少しずつ飯島を見る目を変え始める。

 もともと自ら話さないだけで仕事の質はよく、

 不平不満などまるで口にしない飯島は、

 店にとって大事な戦力となりつつあった。

 そして、店で行われる飲み会やバーベキューなどへ、

 飯島はその都度、由香に無理やり引っ張って行かれる。

 そんななかで彼は少しずつ、周りとも話をするようになっていった。

 そしてとにかく、飯島はいつでもよく働いた。

「こっちは雇ってくれって頼まれた方なんだから、多少の無理は言ったって構
 わんのさ、それで嫌なら辞めてもらって構わないし……」

 そんな風に言っていたオーナーの前田も、

 彼の働きぶりには充分満足していたのだ。
 
 しかしある日、由香が早番で店の中へと入ると、

 飯島が背中を向けてうずくまっている。
 
 思わず駆け寄る由香に向け、飯島はなんでもないんだと笑顔を見せた。

 その顔色からして、充分具合が悪そうなことが見て取れるのだ。

 しかし、そんな彼を無理やり、

 病院へ引っ張って行くほどには、ふたりの関係は近しいものではなかった。

 だから由香はその時、

「もし辛いんだったら言ってくださいね。わたし、社長に言ってあげますか
 ら……」
 
 と告げただけだった。
 
 しかしそれからそう経たないうちに、事件は起きてしまうのだった。

 「きゃあああああ!」

 そんな叫び声に由香が振り返ると、飯島が真っ赤な鮮血で口元を濡らし、

 目を丸くして立ち尽くしている。

「飯島さん!」

 思わず出た由香の声に、飯島が慌てて両手を口元へと宛がった。
 
 彼はきっと、なんとか堪えようとしていたのだ。

 その結果、続いて喉元を逆流する液体が、その口元でいったん遮られる。
 
 しかしそれは、口中を一杯にしてもまだ不充分だった。

 行く手を阻まれたそれらが、ほんのわずか喉元へと押し戻された時、

 飯島の我慢は限界に達する。

 指先から勢いよく飛び出した鮮血は、

 彼の咳の勢いと共に四方八方飛び散った。

 由香はもちろん、飯島の目の前に広がっていた仕込み中の弁当へと、

 それらは見事に飛び散り、降りかかったのである。

 呆然と立ち尽くす従業員の中で、

 鮮血を浴びた由香だけがひとり叫んでいた。

「救急車! 誰か救急車呼んで!」
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