第1章 - 喪 失

文字数 2,404文字

 喪 失
 


 2010年4月。

 多摩川の土手を、ひとりの男がふらふらと歩いている。

 西の空は鮮やかな夕日に染まっているが、

 さっきまでは、土砂降りの雨が降り注いでいたのだ。

 そんな雨を避ける手段がなかったのか、

 彼は雨の滴をしたたらせながら歩いていた。

 男はふと立ち止まり、ジャケットの内ポケットへ手を差し入れる。

 財布を取り出し、ゆっくりとその中身を確認していった。

 満足がいく金額が確認できたのか、

 安心した顔を見せ、やはりゆっくりと財布を元に戻すのであった。

 すると次には、その手に付いた赤黒い染みが気になり始める。

 男はハンカチを探すが見つからず、

 土手に生えている草で擦り落とそうとするのだった。

 何度も何度もそこら中の草をちぎり、

 やがて狂ったようにその汚れを擦り始める。

 しかし……汚れは落ちるどころか、

 余計に刷り込まれていくようで、まるできれいにならないのだ。

 終いに男は奇声を上げ、土手を駆け下り川辺へと走っていく。

 まるで憑き物を落とそうとしているかのように、

 何度も何度も、川の水で掌を擦り合わせるのだった。

 しかしその黒い染みは、一向に落ちる気配を見せない。

 男の奇声は徐々に悲鳴へと変質し、

 いつの間にか、恐怖からの絶叫へと変わっていった。

 そしてふと、その声が途絶えた時、男の意識もどこかへと消え去った。

 男が再び目を覚ました時、それはどのくらいの時間が経ってからだったのか?

 少なくともその場所は、男にとって見覚えのある場所ではなかったのである。

 病院......?

 ふと、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

 しかしどうして病院などにいるのか、

 はたまた、いつからこうしているのか、彼にはまるで分からなかった。

 上半身だけを起こし、起きている事態を懸命に考えている時だ。

「目を覚ましたんですね!」

 入ってきた看護師がそう声にして、

 すぐにまた部屋を出て行ってしまう。

 それからは検査だのなんだの、ただ言われるがままの世界であった。

 やっと静かになったと思った時、ひとりの医者が病室へとやってきたのである。

「あなたは病院の玄関で倒れていたんですよ……何があったか、覚えています
 か?」
 
 ――何があったのか?
 
 それは検査の間中、男も考え続けていたことであった。

 しかしいくら思い出そうと努めても、何も浮かんではこないのだ。

 それどころか、その頃には既に、

 覚えていること自体ほとんどないという事実を、

 彼は知り尽くしていたのであった。

「なんでもいいんです、どんな些細なことだって構わない。声にするだけで
 も、何か分かるかも知れないんですよ……例えば、方言とかでね」

 ただ首を振る男へ、医師は和やかにそんなことを言うのであった。

 それから1時間ほどして、警察手帳を手にした男が現れる。
 
 彼はさまざまなことを尋ねていたが、

 男はやはり、そのほとんどに首を振るだけで答えていた。

 病院の玄関で嘔吐し、恐らくそのまま気を失った……。
 
 名前も住所も覚えていない。
 
 しかし男にはわずかではあったが、

 いくつかの遠い過去の記憶が残っていたのである。

 化粧台に向かっている母親(だと思うが確信はない)が、

 おもむろに立ち上がり、傍らまで来て顔を寄せる。

 そして何事かを呟くが、とにかく化粧の匂いが嫌で嫌で堪らないのだ。

 さらにそんな母親は、もうずいぶん前に亡くなっている。

 そんな確信と共に、小さい頃にあった出来事の断片なのだろうか、

 ――暗い小さな部屋にひとり残され、
   ただただ寂しくて悲しい気持ちに耐えている……。

 そんな嬉しくもない自分の姿だけが、

 男にはしっかりと残されているのであった。

 きっと自分は、あまり幸せな子供時代を過ごしてきてはいないのだ……。

 男が懸命に考え、知り得たこととは、たったそれだけのことなのであった。

 飯島正行。

 それが男の名前となったのは、発見されてからひと月後のことだった。

 役所で好きな名を挙げるよう言われた彼は、

 ふと浮かんだその名を自ら告げていたのだ。

 住むところも世話してもらい、もちろん市からの借金であったが、

 必要最低限の家具や電化製品も用意してもらった。

「どこかで捜索願いが出てるはずだから、きっとあなたの戻る場所は見つかる
 さ。それまでは、運良く経験できる、まったく別の人生だと思って楽しめば
 いいよ」

 役所の担当者はそう言って、その後も何かと声を掛けてくれた。

 50歳から55歳……それが医師の言う男の想定年齢であった。

「とにかく内臓が弱ってるんで……きっとずいぶん、ストレスのある生活を送
 っていたんでしょう。落ち着いたら一度、精密検査にいらしてください」

 見た目以上に不健康だと、診察してくれた医者は言っていた。
 
 頭などに目立った外傷などはない。

 だから精神的な衝撃が原因ではないかと言い、いつ元に戻るかについては、
 
 はっきりとしないのが記憶喪失なんだと付け加えるのであった。

 どうしても記憶を取り戻したいか、

 そう問われれば、彼はきっと首を左右に振るであろう。

 財布に残っていた十数枚もの1万円札。

 しかし身分を証明するようなものはまったく残ってはいなかった。

 カードが1枚も入っていないというのは、どう考えてもおかしいのだ。
 
 それらが盗まれたんだとすれば、

 金が残っていることをどのように考えればいいのか?
 
 だから彼は結論として、

 自分で捨てたんだという考えに行き着くのであった。

 ――誰だか知られぬように……何か事情があってそうしたに違いない。
   でも、いったい何があったというんだ……。

 それはどう考えても、知って楽しい話であるはずがない。

 だから彼はしばらく飯島正行として、この街で暮らしていく覚悟を決めるのだった。

 決して都会とはいえぬ、この小さな街の住人として、

 安息の時となることを心で強く願いながら……。
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