第10章 – 認 知(8)

文字数 1,386文字

 認 知(8)



 馬鹿なこと言うんじゃない!!

 さっきまで聞こえていたそんな言葉さえ、

 もはや武彦は言い返す気力を失ったようだった。

 この日の武彦の姿は弱々しいもので、佐和子が初めて目にするものだ。

 そんなことが彼女には余計腹立たしく、

 さらに怒りが増幅していた。

 胃癌 ステージ4期。

 既に肝臓に転移が見られ、手術による完治は難しい段階。
 
 布巾を手にしたまま倒れていた和子は、

 すぐに救急車で武彦の病院へと搬送された。

 そして入院後すぐに、そんな検査結果が明らかになった。

「とにかく直しなさいよ! これまでずっと偉そうにしてきたんだから、その
 くらいできなくてどうするのよ! ちゃんと直して、最後まで偉ぶってみせ
 続けなさいよ!」
 
 30分ほど前に病院から戻った武彦を、

 佐和子はずっと捕まえて離さなかった。

 生まれて初めて、父親へと己の怒りを爆発させていたのだ。

 退院後の実家での生活は、

 佐和子にとってまさに20年ぶりとなるもの。

 佐和子はそこで初めて、

 これまで気付きもしなかった現実を知ることになる。

 それは父親が絶対であった若い頃には、

 決して思いもしなかったことだった。

 ――もしわたしが……お母さんの立場だったら……?

 とてもこんな生活など耐えられないと、

 そんな思いが日に日に強くなっていったのだ。

 それはまさに、

 こんな人だったんだ……という、驚きに他ならなかった。


                *


 それでも武彦はそれから、己の知識、技能の全てをフル活用し、

 和子を助けようと奮闘する。

 しかし残念ながら、どれも光明を見いだすには至らないのだった。

 佐和子は佐和子でさまざまな書物を読み漁り、

 ちょっとでも助けになりそうな情報を探した。

 そんな書物を読めば読むほどに、病気になって当たり前に思える、

 和子のこれまでの生活に気がついていくのであった。

 別々に暮らしていた頃も、実家にはしょっちゅう入り浸っていたのだ。

 しかしそんな時、佐和子の視線も武彦同様、

 和子の日常の本質をまるで捉えてはいなかった。

 不平不満など、一切漏らしたことのない母親だったのである。

「お父さんを、お願い……」

 これが佐和子の耳にできた、母和子の最後の言葉であった。

 さらにそうなるまでの間も、和子は何かというと武彦のことを心配した。

「お父さんは、ちゃんと食べてるかしら……?」

 などと言って、滅多に顔を見せない夫のことばかりを案じる。

 そんな時、佐和子が武彦への苦言を言葉にすると、

 和子は本当に悲しそうな顔を見せるのだった。

「何言ってるの、お父さんが聞いたら悲しむわ……」

 そしてそんな会話からたった3週間で、和子の容態は急変する。

「お母さん……お母さん……」

 何度も何度も母に声を掛ける佐和子に、

 和子はほんの一時だけ意識を取り戻すのだった。

「子供たちもここに向かってるから……お願い! しっかりして!」
 
 そんな声に和子は、やはり武彦への心配だけを口にしていたのだ。
 
 ――お父さんを、お願い……
 
 それは本当に小さな声で、まるで吐息のように囁かれていたのであった。

 その日の夜、和子は帰らぬ人となる。

 そんな和子を前にして、武彦は最後まで涙を見せなかった。

 そして悲しみなど一切見せぬままの武彦を見つめながら、

 佐和子は父親との真の決別を、心に強く誓うのであった。
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