第2章 – 家族(2)

文字数 1,637文字

第2章 – 家族(2)



 受験は高校からでいい――きっと貧乏であった生い立ちへの郷愁や、

 裕福な家庭への妬みや蔑みのような感情が、

 そんなことを強く思わせていたのかも知れない。

 これまでほとんどのことについて、佐和子の言う通りにして来た順一が、

 ここだけはなんと言われようとも譲らなかった。

「やる気さえあれば、高校で受けて受かればいいんだ……それが、普通っても
 んだろう?」

 何をして......それを普通だと断言したのか、

 今となってはそれさえもよく分からない。
 
 とにかく、小学校も公立へと通わせ、

 中学受験についても彼は首を縦に振らなかった。

 その結果、市立中学から高校を受験した唯は、

 小学校からの一貫校であった第一志望校へは入れず、

 有名校ではあったが、まったく別の高校へと通うこととなった。

 あらゆる条件を鑑みても、

 その幼稚園を受験して受かったかどうかは疑問だった。

 しかし、唯が目指すべき高校に受からなかったという事実が、

 さまざまな波紋を呼び込むことになっていたのである。

「武はなんとしても入れるんだぞ! まったく、幼稚園から入れておけば、も
 っとレベルの違う子になっていただろうに……本当に馬鹿なことをしたもん
 だ」

 再び野村武彦が、大声でそんなことを言ってくるのだった。

 彼は唯の高校受験の一件から、順一とほとんど話さなくなった。

 順一が話しかけても、一言二言返せばいい方で、

 最近ではそれさえもないことだってある。

 つまりは、「話しかけてくれるな」という明確な意思表示なんだと、

 順一は素直にそう思うようになっていた。

 武彦は確かに、唯が目指した私立大学の医学部出身であった。
 
 だからといって、孫の進学先にここまで執着するとは、

 彼は想像さえしていなかった。

 なので佐和子が必死に唱え続けていたのも、

 自身もそこの卒業生だったからくらいに思っていたのだ。

 ところが今から思えば、それはとんだ勘違いだった。

 武彦は野村家にとって、

 逆らうことのできない絶対的な存在であったのだ。 

 だからそんな武彦の指示とも言える強い希望に、

 佐和子はただ従っていただけなのかも知れなかった。

 そして最近は、武彦だけでなく佐和子までが、

 実家にいる間は滅多に、順一へと声を掛けなくなっていたのである。

「ごめんなさいね、あんな娘で。どうか家に帰ったら、しっかりと叱ってやっ
 てください」

 帰り際にそう言って、頭を下げる義母和子だけは、

 順一が唯一、心安らかに話せる相手であった。
 
 そしてそんな和子に見送られ、

 順一はひとり、野村邸をあとにしたのであった。

 順一の家は佐和子の実家から、小田急線で神奈川方面へ数駅先にあった。
 
 そこもそれなりに閑静な住宅街だったが、

 その分土地は小さく、野村邸とは比べようもない小さな佇まいでなのだ。

 順一自身はもっと遠くでもいいから、広い庭のある家に住みたがった。
 
 しかし佐和子が遠くを嫌がり、

 結局30坪足らずの建て売りに落ち着いていた。

 駅から10分ほどの道を歩き、

 彼は真っ暗な中、寒さに凍えながらチャイムを鳴らす。
 
 しかし家の中からはなんの反応もなかった。

 順一は暗い手元の中、慣れた手つきで鍵を開け、玄関の中へと滑り込んだ。
 
 真っ先にリビングのエアコンを入れて、

 コートを着たままキッチンへと向かうのだった。

 彼は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、

 そのまま冷え切った身体へと流し込んだ。
 
 すると液体が胃に到達した途端、己の胃袋が、

 まるで別の生き物のようにくねくねと捻れ動くのを感じる。

 なんとも嫌な気分だった。
 
 考えてみれば、朝からほとんど何も口にしていない。

 野村邸で出された鮨を2貫と、

 和子が取り分けてくれた御節をほんの少しだけ。

 それでなくても、ここ最近は胃が痛むことが多くなった。

 もちろん家庭でのこともあるのだろう。

 しかしそれ以上に、会社における彼の立場が、

 胃の状態を悪化させているに違いないのだ。
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