第4章 – 現れた女(13)

文字数 1,044文字

 現れた女(13)



 はじめ、このアパートで暮らし始める時、必要最低限の細々としたものを、

 前田に頼まれ美穂子が用意してくれていた。
 
 パックに入ったドリップ式コーヒーもその中にあり、

 即ち、今朝になって初めて、それが使われたということであった。

 不思議なことに、薫はそんな話に反応していた。
 
 顔を強張らせ、小刻みに喉を震わせているのだ。

 さすがの飯島もそんな姿に気づいてはいたが、

 ほんの一時のことであったゆえ、あえて言葉にはせずに済んでいた。

 うちの人も、コーヒーが嫌いでした――きっとそんな話なのであろうと、

 彼は早速、前夜の顛末を話し始めるのだった。

「8時頃だった、かな、妙に高級そうなスーツを着込んだ男が入ってきたんで
 すよ……」
 
 上品そうに見える客が、薫の言っていた男だと瞬時に悟った。

「マスター、いい加減時給上げてちょうだいよ。もう5年も、わたし全然上が
 ってないんだからね」
 
 カウンターに座って首を伸ばし、飯島にこう告げる由香の声は、

 間違いなく男へも届いていたはずだった。

 飯島からの合図があったわけではない。

 男が、胸元から写真を取り出したのを見届け、

 由香が思わず声にしたのだ。

 うまい! 

 まさにそんなタイミングで、由香がいきなり幕を開けていた。

「このままならわたし、本当はイヤだけど、他の店に行っちゃうよ、マスタ
 ー……わたしひとりでもう10年近いんだからここ……少しはさ……ご褒美
 くれたっていいと思わない?」

 由香の演技はなかなかのもので、セクシーなワンピース以上に、

 その口調そのものが、台詞の真実味を高めている印象だ。
 
 男はそんな由香の声を聞いて、20分も経たずに店をあとにしたのである。

「取り出した写真もすぐに引っ込めてましたし、だからきっと、大丈夫だと
 思うんですが……」

 そんな飯島の言葉に、薫は何も言わず、ただ深々と頭を下げた。
 
 そして、そんな結果に安心したのか、

 薫はそこで初めて、ホッとした笑顔を飯島へと向ける。

 その後暫く、他愛もない話をして、

「今後とも、よろしくお願いします」

 そんな言葉と共に、薫はその部屋から帰って行った。

 その言葉通りに薫は、それ以降ちょくちょく、

 飯島の部屋に顔を見せるようになる。
 
 作り過ぎたと言って夕飯の惣菜を持ち込んだり、

 何か面白い本があれば貸して欲しいなどと、

 その都度チャイムを鳴らすのだ。

 しかしとにかく彼女は店に復帰でき、
 
 多少の変化はあったものの、飯島にも平穏な日々が戻ってきていた。
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