第3章 – 事情 ・ 2012年1月(2)

文字数 1,375文字

 2012年1月(2)



 米沢美穂子、1972年生まれの40歳。

 前田正弘とは、幼い頃育った施設で一緒だった……と言う。

 そんな話を、今日の今日まで聞いたことがなかった。

 両親が事故で亡くなり、引き取り手のなかった美穂子と異なり、

 前田にはたまにではあったが、会いに尋ねてくる父親がいた。

 彼の父は的屋で全国を巡り、

 施設の近くに来た時だけ顔を見せに寄っていたのだ。

 しかし前田が中学に上がる頃になると、突然ぷっつり姿を見せなくなった。

 ――きっと酒に酔っ払って、どこかで野垂れ死にしちまったのさ。

 3つ年下の美穂子を残し、前田が15歳で施設を出て行く時、

 そう告げたのが最後であった。

 それ以降前田の口から、父親のことが語られたことはないのだと言う。

「ひどかったのよ……とにかく前田は、外で喧嘩ばっかり……」

「でもまあ、そのくらいの年齢なら、普通にあることですよ」

「でもね、頭はホントに良かったのよ……だからねえ、余計、周りに腹が立っ
 ちゃうのよねえ。どうせバカなんだろう?みたいな態度見せられるとね……」

 そんな喧嘩に明け暮れたような1年が経過し、彼はそれでも、

 中学に進学したばかりの美穂子を施設から連れ帰るのだ。

 それから前田は懸命に働いた。
 
 喧嘩の度に仕事は変わり続けたが、美穂子の学費から生活費全てを、

 切らすことなく必死に稼ぎ続けた。

「わたしは結局、高校まで出してもらってね……気がついたらさ、あいつと一緒
 になっちゃってたのよ。なんとまあ、お手軽なところでね、笑っちゃうでし
 ょ?」
 
 そしてふたりで貯めた資金で、

 なんとかこのスナックを始めたのが15年前……。

 どうして籍を入れないのか? 
 
 そう尋ねようと美穂子の顔を覗き込んだ飯島は、

 結局、そのことを口にはできなかった。
 
 いつの間にか美穂子は、何もない宙を眺めながら、

 声を出さずに泣いていたのである。

 きっと口にはできない、さらなる思いがあるのだろう。
 
 飯島はそんなことを感じて、ひとり静かに席を立つ。
 
 何も告げずに、外へと続く扉へと向かうのだった。

 するとスナックの扉が閉まる寸前、美穂子の号泣が響き聞こえる。
 
 幸いなことに、明日はスナックの定休日だった。
 
 だからいくら顔を腫らしたところで、

 彼女は蒲団を被って寝ていればいい。

 美穂子はその夜、間違いなく飯島を誘っていた。
 
 それは今回に限ってのことであろうが、

 飯島に抱かれたいと、あからさまな態度を向けていたのだ。

 そんな気持ちはきっと、

前田が今夜に限って現れなかったことに関係しているに違いない。
 
 そのせいか、美穂子は酔いが回るに従い、

 前田のことばかり話すようになっていた。

 もちろん今の飯島にとって、

 美穂子を抱くなんてことはまるで考えられなかった。
 
 しかしだからといって、

 美穂子への欲求がまるでなかったかと言えばそれは大きく違っていた。

 さっきまで耳元にあった美穂子の吐息は、

 2年近く忘れていた熱く脈打つものを、

 飯島にしっかりと思い出させていたのである。

 だからそんな悶々とした気持ちのまま、

 夜の街をアパートへと急いでいたのだ。

 ところが繁華街を抜けた辺りで、突然その名を呼ばれて立ち止まる。
 
 振り返る飯島の視線の先で自転車に乗った山田由香が、

 寒さに頬を赤くして立っているのだった。
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