第9章 – 覚醒(5)

文字数 859文字

 覚醒(5)
 


 彼は午後から会社に休みをもらい、慌てて家へと向かった。

 家に入ると、部屋の様子は予想以上の惨状で、

 明け方片付けたはずのタンスから、

 ありとあらゆる衣類が引っ張り出されている。

 玄関にある靴箱や、その上に作られた収納ボックスからも、

 その中身がそこら中に放り出されているのだ。

 ――何かを必死になって、探していたんだろうか……?

 まさにそんなことを思わせるような、それは見事な乱れ方であった。

 そして探し物が見つからないまま、

 玲子は表へと出て行った……そんな風に思っていた順一が、

 そうではない事実を知るのは、

 それからひと月以上が経過してからのこととなる。

 絶景の紅葉の中、玲子は大きな杉の木にもたれ掛かるように腰を下ろし、

 死体となって発見されたのである。

「おばあちゃん、どこに行きたいの? 切符買うんなら買ってあげるよ……」
 
 切符券売機の前で、小銭を握り締め、じっと佇む玲子に向かって、

 その声は優しく差し向けられていたのだ。

 きっと何人もの親切心と、そんな感じの声がけがあったに違いない。

 いくつものそんなことのお陰で、彼女はその場所まで辿り着いていたのだ。

 玲子が必死に探していたもの、

 それはまさに、そこに行くために必要な衣類や登山靴であったのだ。

 結果、彼女の服装は誰の目にも、

 ハイキングと分かる印象となっていたのである。

 かなり進んだ症状であるにもかかわらず、

 どうしてそんな行為が可能だったのか? 

 それは順一にもいまだ謎のままだ。

 そこは彼も一緒に登ったことのある、

 都会から比較的近い人気の低山だった。

 そんな山の中腹辺りで、彼女は人知れず死んでいた。

 一般の登山道から外れた林道の下、

 さらに10メートルほど下った斜面で、

 ある日偶然発見されたのである。

 特に転げ落ちたような形跡はなく……きっと尻餅をついた状態で、

 自ら杉の木目指して降りていった。

 そして運悪く心臓発作でも起こしたのだろう……今となっては、

 そんな風に考えるしかないと、警察関係者は順一へと告げていた。
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