第11章 – 2月某日(5)

文字数 953文字

 2月某日(5)



「いらっしゃいませ……」

 そんな順一の声は、想像もしていない元気のいいものだった。

 しかしカウンターから出てきた彼は、手一杯だからと佐和子に告げる。

 だから彼女は仕方がないと、一度は出直そうと帰りかけていたのだ。

 しかしその時、佐和子の耳に大きな声が響き聞こえる。

「マスター! これ栓が抜けてないよ! これじゃ飲めないぜえ!」

 彼女が声のする方を見ると、真っ赤な顔をした酔っ払いが、

 瓶ビールを片手に手を振っていた。

 順一はその時厨房の中にいて、

 その声が聞こえた様子はまるでない。

 栓抜きくらい、自分で取りに行けばいいじゃない! 

 きっとそんな気持ちが顔に出ていただろう。

 カウンターに置かれていた栓抜きを見つけると、

 佐和子は悠然とその客へと近づき、おもむろにそれを差し出した。

 しかし客は栓抜きを掴み取ることなく、いきなり佐和子の手首を握った。

「うれしいねえ! お姉ちゃん、こっちで一緒に飲もうぜえ!」

 そんな声はきっと、本気で言った言葉じゃない。

 なんとも面白がっている感じが、その顔にもあからさまに浮かんでいた。

 しかしその瞬間、彼女は叫び声を上げてしまった。

 その甲高い佐和子の声に、

 そんな連中はさも楽しそうに大笑いを見せるのだった。

 佐和子は慌ててその手を振り解き、

 栓抜きをテーブルへと音を響かせ置いた。

 そして慌てて入り口へと戻りかけた時、

 そこで初めて、散らかり放題のテーブルに気付くのだった。

 見渡せば、3つものテーブルがすべてが客が帰ったままになっている。

 ――チャンスかも知れない……?

 そんなことを思ったのは、既にそのテーブルを、

 自ら片付け始めてからのことだった。

 彼女はそうなってからやっと、

 入り口に貼られていた求人の内容を思い出すのだ。

「料理が大好きで、かつ調理師免許取得者」

 もちろん、佐和子は調理師免許など持っていなかった。

 しかしその気になれば、そのくらいいつでも取れると思う。

 だからとりあえず、今は持ってることにしようと決めるのだった。

 万が一の時に備えて、

 彼女は架空のストーリーを必死に思い浮かべる。

「実はわたし、暴力夫から逃げてこの街に来たんです……」

 閉店後、佐和子がそう話し始めて、

 わずか10分後には採用が決まっていたのである。
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