第11章 – 2月某日(8)

文字数 914文字

 2月某日(8)



 ――あれ……?

 佐和子がそんな風に思いさえしなければ、

 老婆を連れ、タクシーに乗り込むこともなかった筈だ。

 そして当然そうなれば、順一が気を失うようなことも起きなかった。

 しかし彼は見知らぬ老人を抱きかかえたまま、

 後頭部を嫌というほど打ちつけてしまう。

 気を失っているわずかな時間に、

 佐和子は順一の口から、驚きの声を耳にするのだ。

「唯……大丈夫だ、もう、大丈夫だから……」

 それはまさに目を覚ます瞬間、掠れるような声で聞こえ届いた。

 少なくとも彼はこの時、娘の存在を思考のどこかで感じていたのだ。

 そうして佐和子は、不安の渦へと放り込まれた。

 思い出すかも知れない。

 そんな不安が現実となった時、もし、彼がひとりでいたならば、

 いったい......どんな行動を取るのだろうか? 

 自殺を図るとまでは思わなかったが、

 再びどこかへと、消え失せてしまうことくらいはありそうに思えた。

 ――ひとりにしておいては……絶対に、ダメ。

 施設からの帰り道、時折ぼうっとした顔を見せる順一に、

 彼女は心に強くそう思うのだった。

 しかしそうは思っても、なかなか部屋を訪れる決心がつかない。

 ――なんて言おう……心配だから、一緒にいたい?

 向こうは赤の他人だと思っているのだ。

 だからそう伝えたところで、大丈夫だと言って返すに決まっている。

「今晩、ここに泊めてください」

 真っ赤になった佐和子の、それは懸命なる声だった。

「もちろん……襲ったりしませんから、わたしの方からはね……」

 冗談めかして続けた言葉も、

 よくよく聞けば上ずったものとなっていた。

「あなた……」

 ふと目を覚ました佐和子は、

 久しぶりにそんな言葉を発していた。

 横を向き、再び声にしかけてやっと、

 呼びかけるべき相手がいないことに気がつくのである。

 もう既に、表へと出て行ったに決まっていた。

 それでもトイレや風呂場までを見やり、

 彼女はやっとそんな事実を受け入れる。

 そしてアパートの周りを懸命に探すが、

 とうとう順一の姿を見つけることはできなかった。

 それから佐和子は、ずっと順一の部屋にい続けた。

 携帯電話を握り締め、彼が戻ってくるのを待ったのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み