第24話

文字数 1,470文字


「お姉ちゃん悪くないって。電話に出ないくらい何なのよ」

「何か言われた?」

あたしはそのままゆきちゃんの胸のなかで訊いた。

「別に。どこで何をしてるか知ってるかって。心配なんてしてないくせに。お姉ちゃん知ってる? あいつ、ゆきに相手にされないもんだから、こんどはお姉ちゃんのことヤラシイ目で見てるよ」

あたしはゆきちゃんが案外冷静に物事を観察しているのに驚いた。

「ゆきちゃんは大丈夫なの? 怖くない?」

「全然平気。あんな奴に何かされるくらいなら、舌噛んで死んでやるから」

あたしは顔をあげた。ゆきちゃんと目が合った。くりっとした目。

「死んじゃだめ」

あたしは真剣に言った。ゆきちゃんは一瞬止まって、

「じゃ、そこから飛び降りる」と、窓を指した。

「ここ二階だよ」

「知ってる」

ゆきちゃんは屈託なく答える。

「逃げられないかも」

こう言ったあたしをゆきちゃんは見据えた。現実的な言葉が唐突に響いたのかもしれない。

「お姉ちゃん、何かあったの?」

「ううん、別に」

あたしは再びゆきちゃんの胸に顔を沈めた。ゆきちゃんがあたしと同じ目に遭ったらどうなるのだろう。想像できなかった。

あたしはどうだったのだろう。できごとが異常だったので、それを処理をする脳への負荷が大きすぎたみたいで、その後の記憶が曖昧だった。

そもそも記憶は変形するらしいので、あたしの回顧も当てにならないのかもしれない。

けれども、しばらく頭痛が続いたことは覚えている。それに、皮膚を脱ぎ捨てたいと思っていたのも覚えている。頭のてっぺんから、後頭部を通って、首、背中、お尻、そこから左右に分かれて、太ももの裏、ふくらはぎにかけて切れ目なく一直線に剃刀を入れて、脱皮するように脱ぎ捨てたいと。

他に、辛かったし、悔しかった、そういう印象は漠然と残っている。同時に、それをすぐに過去のものにしようと必死になっていたのも覚えている。前向きにそうしようとしていたのではない。何か対応できることがあれば、対応しようというわけではなかったから。

ただ過去のものにして、急いでごみ箱に入れ、(ふた)をする。そして、なかったことにする。――こういう態度だった。

この態度は、前に説明した通り、母があたしに冷たかったことが関係していたのかもしれない。辛い、寂しい、こういう感情ばかり生じ、あたしはこれらを持て余していた。目の前に置いておくと、いっそう辛く、寂しくなるので、無理にでも捨て去ってしまう。呑み込んでしまう。

ユウヤの一件でもこういう態度を採用した。そのせいか、辛いのだけど、どこか冷静に対処しようとしている自分を、あたしは心のなかで見ていた。

そういう自分を不自然に感じてはいた。……

三十分ほどすると、武男は外に出ていなくなっていた。母も帰っていなかった。

あたしは湯の出の悪いシャワーを浴び、身体中を擦りに擦った。湯船に浸かり、身体のなかから汗と共に何もかも流れ出てしまえと思っていた。

風呂からあがり、ゆきちゃんと一緒に寝た。

天井には板がはめ込まれていて、木目が等高線のように波打っていた。そこは(すす)でもかかったかのように汚れていて、大小の染みが所々広がっていた。

黒く丸い木の節もあり、豆電球の明かりのもとで節と節と結びつけると、人の目や、鼻の穴や、口が描け、それはムンクの『叫び』のような顔になった。

あたしの部屋の天井では、顔は描けなかった。

何か怖くない? と訊こうと思って、ゆきちゃんを見ると、もう眠っているようだった。

あたしは天井の顔を眺めながら、ほとんど眠らず夜を明かした。
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