第128話

文字数 1,289文字

病院に着くと、処置室に入れられた。

「お名前言えますか」

「どこだか分かります?」

医師に大きな声で訊かれた。顔写真入りのバッジには『外科』と記されていた。

あたしは名前を思い出すのも、状況を理解するのも困難だと、困った顔をして示した。実際に、依然としてぼーっとはしていた。医師はそれ以上は 訊かなかった。

血液を採られ、脈や血圧を測られている近くで、救急隊員が状況を説明しているようだった。

順番は覚えていないが、服を脱がされ、火傷(やけど)の有無も調べられた。X線による撮影もされた気がする。

一通りの診察と処置とが終わると、身の回りが静かになった。

聞こえてきたところによると、あたしは軽症で、栄養状態が悪いということだった。また、一時的な記憶障害下にあるからということで、精神科の担当になるようだった。経過観察のため一晩はICUに入るらしい。

気になったのは「警察」という言葉だった。警察があたしに事情を訊きたいのは、予想されることだった。

「来る前に、ここを出ないと」

あたしは身を固くした。

大型の病院だけあって、処置室にいる患者はあたし一人ではなかった。カーテンで仕切られた隣では、懸命の作業が続けられていた。あたしの場合と違って、断然慌ただしい。「手術室はいつ空くのか」などという言葉が聞こえてきた。

「これだけバタバタしているのなら、どさくさに紛れて消え去ることができるのでは」

咄嗟(とっさ)に考えるのだけど、やはり無理だ。ここではあたしは主人公だ。動けば注目されるだろう。そもそもあたしの持ち物はどこにあるのだ?

動けないので、あたしは横を見てみた。あたしの周りは完全に仕切られていなかったので、隣が見えた。隣のカーテンは揺れていた。人影も映るし、人の出入りも頻繁だ。

どんな患者(ひと)なんだろう。また、どんな手術をするのだろうか。

カーテンの隙間から覗けないかと思ってしばらく眺めていたが、その機会はなかった。

向こうと違って、こちらは静かだ。静けさを意識すると、急に眠気が襲ってきた。あたしはいつのまにか眠りに落ちていた。

次に目覚めたとき、あたしは確かにICUにいた。三方は壁に囲まれていて、壁のない足元の方角はカーテンで仕切られていた。狭かった。

腕に何かの点滴の針が刺さっているのを確認して、何気なく天井を見ると、カメラがあった。最初、監視されているのかと思ったが、単に患者を観察しているのだと思い至った。

あたしの周囲に人はいなかった。 反射的に逃げ出すチャンスなのではないかと考えるのだけれども、現実がすぐにこの考えを否定する。見えないだけで、周囲にはたくさんの人がいる。人は横切るし、話声はするし、何やら処置している小さな金属音も聞こえる。

もっとも、逃げ出す機会を窺い、実行する、こんな緊張に耐えられそうになかった。このときのあたしは、アンクルウエイトでも巻いているかのように足が重く、また、とにかく眠かった。

それ故、状況が逃げ出すことを許さないと悟って、ほっとした一面もあった。

「あとのことは、あとで考えよう」

寝返りは打てそうになかったので、少し身体を横にずらしただけで、あたしは気を失うようにまた眠った。
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