第63話

文字数 1,182文字

次の日、外から帰ったユウヤは、不自然なくらいに語気を強めて「悪い」と言った。


あたしは何も言わず、目で訊いた。何が悪いのか。


ユウヤは、強い語気とは逆に、大根役者が台詞(せりふ)(そら)んじるが如く、「怜佳のケータイなくした」と言った。


「え? どこで」


あたしは困ったことになったと思った。回線の中断をしなければならないけれども、その手続きについて、あたしは何も知らなかった。


「いや、分からない」


申し訳なさそうな口調だった。しかし、その表情に真剣味はなく、既に何か別のことを考えているような目をしていた。


「どうしよう……」


「大丈夫。明日買ってくるから」


コンビニエンスストアで携帯電話が買える時代だった。


「そうじゃなくて……」


解約しなければならない。あたしは自ら母と連絡をとるのか、ゆきちゃんを通じて連絡をとるのか、それを考えていた。同時に、余計な問題が増えたなと重い気持ちになっていた。こういう問題は後回しにできない。


「警察に届けて欲しい」


あたしは言った。なくなった携帯電話が簡単に出てくるとは思えなかった。しかし、一縷(いちる)の望みを託したかった。


「うん、分かった」


ユウヤが素直に承諾したのは意外だった。「どーせ出てこない」と面倒がると思っていた。ただ、こちらを見ずに応えたので、適当に受け流されているように思えなくもなかった。実際、ユウヤは動こうとしなかった。


「いま行ってくれる?」


「無理」


「どうして」


「人が来る。仕事関係。だから、出ておいてくれる? 二、三時間ほど。それが終わったら行く」


時計を見ると、十八時だった。出るのは出てもよいけれど、そんなことよりも、携帯電話のこと困ったなというのが、このときのあたしの気持ちだった。


あたしは靴を履いて外に出た。裸足で家を飛び出してきたので、いま履いている靴はユウヤに買ってもらったものだ。二千円ほどで買える白のスニーカー。たいして履いていないので綺麗だったけれども、いつのまにか、一点赤黒い汚れが付いていた。


秋も半ばを過ぎていた。太陽()はとうに暮れ、外気は冬の寒さを予感させた。シャツ一枚ではさすがに冷える。何か羽織るものが必要だけど、持っていなかった。


「買ってやるよ」


ユウヤは言っていた。しかし、そういう素振りは見せなかった。もちろん、あたしから要求できるようなことではなかった。


現在のあたしなら機転を利かせてユウヤの上着を借りるという選択をしただろう。しかし、このときのあたしは、男性は男性ものの服を、女性は女性ものの服を着るという考えに縛られていたので、そのようなこと思い浮かびもしなかった。


あたしはシャツの襟を引きあげ、首を縮め、アパートの階段を下りた。いつもならリズムよくすんなりと下りられるのに、この日に限っては、少し(つまず)いてしまった。


あたしはコンビニエンスストアに向かった。そこで(いく)らか時間を潰し、次は書店にでも行こうと考えていた。
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