第130話

文字数 778文字

トイレには別の患者が二人いた。彼女たちの世間話から、この病院にはコンビニエンスストアがあるのを知った。しかも、そこでは上履きを売っているらしい。いま履いているスリッパのことを思えば、取り敢えずは上履きで充分だ。

あたしは病室に戻った。ここは上層階に位置するようだった。窓から見える景色は雑然としていた。商業ビルにマンション。自動車専用道路があり、鉄道も走っていた。高さも形も様々だった。しかし遠くには住宅街が見えた。計画的に建てられているらしく、こちらは整然としていた。

ベッドに目をやるとプレートがあるのに気付いた。入院日、担当医、担当看護師、それにあたしの血液型が記されていた。患者氏名は『名無しの白雪さん』となっていた。白雪姫になぞらえられて嬉しかった。しかし、それもほんの一瞬、すぐに焦燥に駆られた。

「くずくずしていられない」

あたしの記憶喪失が嘘であることくらい、精神科医ならすぐに見抜くだろう。

あたしは枕元に十万円を置いた。いくら払うべきか分からなかったので、精一杯の感謝とお詫びとを示したつもりだった。それから服を持ってもう一度トイレに行き、着替えた。

あたしはここの病棟に来てまだ一日も経っていなかったので、ほとんど顔を知られていなかった。エレベーターはナースステーションの前にあったけれども、あたしは見舞客その他の人に紛れて乗り込むことができた。ナースステーションに看護師がほとんどいなかったことも幸いした。

コンビニエンスストアは受付のある二階にあった。会計もあり、支払い待ちのためか、フロア全体に人が溢れていた。あたしは店に入って上履きの他、靴下、パン、コーヒー、ヨーグルトを買った。そして、すぐにトイレに行き、スリッパを上履きに履き替えた。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

心のなかでこう呟きながら、あたしは()き立てられるように病院を出た。


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