第95話

文字数 1,207文字

男は虚を()かれたのか、無防備な顔をした。あたしはその顔に言葉を投げた。

「お願いします。助けてください」

あたしは男を見据えた。男の眉は一直線になっていた。少し考えているようだった。

やがて、男の(まぶた)がピクリと動いた。

「自己責任だろ」

男は言った。唐突だったので、あたしは応えられなかった。

「喧嘩して家を出たと言ったよな」

そうではないけれど、そう言ってしまっていたので、あたしは頷いた。

「家を出ないという選択肢もあった。にもかかわらず、自分の意思で出る方を選んだ。それって自分の責任だろ」

母の愛人に襲われそうになった。しかも、母はそれを認めていた。襲われたくなければ、逃げ出すしかなかったんだ。と、こんな話をいまさらしたところで、作り話をしているようにしか響かないだろう。

それに、ゆきちゃんが襲われたあと、一度は家に戻っている。それでユウヤに(だま)されている。あたしでなければ騙されていないかもしれない。そうだとすれば、騙されたあたしが悪いと言えなくもない……

けれども、あたし以外の誰にでも武男のような存在がいるのだろうか。我が家に武男がいるのはあたしの責任なのだろうか。やはり、この点は納得できなかった。

「交通事故に()う人も、その人に責任があるんですか」

「何?」

予期せぬ「交通事故」という言葉に、男は少し驚いたようだった。

「運転手の不注意で()かれた人と、歩いている人の不注意で轢かれた人と、同じ責任があるんですか」

あたしは言った。

「はあ? 何の話してるの? 同じなわけないだろ。考えるまでもない。てか、自分で答え言ってるじゃないの」

あきれた、と言わんばかりの口調だった。

男は、こういう話をあたしの身のうえに引き直すなど、思いもよらないようだった。

「翔子、甘えたら駄目だよ。と言っても、もう遅いのだろうけど。翔子にはちゃんと怒ってくれる人がいなかったんだろ。だから甘えて責任を取らずに生きてきた。甘いことばかり考えて、中学生のくせにいいオトコにばかり尻尾(しっぽ)を振ってきたんだろ。で、とうとう騙されたと」

「あたしの何が分かるの」

決め付けた言い方に、あたしは腹が立った。

「分かるさ。普通はこんなとこに来ないから。翔子は自分で選んでここにいるの。そのときどきで楽な方を選んだからここにいるの。分かる? 選んだんだから、ここで責任を取らないと」

楽な方を選んでいる、と言われれば、その通りかもしれない。けれども、あたしに関するこの男の言い分は間違えている。ただ、あたしにはそれを訂正するだけの力がなかった。それ故、身体の底に怒りがねっとりと溜まるようだった。

「僕が憎いか」

憎い。でも、それを正解とするのは(しゃく)(さわ)る。だから、別にと応えた。

「責任を自覚しないとな。人生舐めると、こうなるんだよ。……また来るよ」

男はインターフォンを押した。少し経って、ヘグ婆と髭男が現れた。髭男は含み笑いをもって男を迎え、二人で階段を下りていった。ヘグ婆は残った。

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