第51話

文字数 1,228文字

飛んだあたしはバンの屋根に着地した。恐くて身体を丸めているうえに、勢いを殺すだけの力もないので、前に転がりそうになった。両手を突いて支えようとした。けれども、下半身は横へ流れた。あたしは手足を折り畳んだ。身体はごろごろと転がり、落ちた。


足から落ちたのは幸いした。地面に近付くのがスローモーションのように見えたので、不完全ながら足を出すことができたのだ。もちろん、痛かった。


あたしは窓を見あげた。そこには武男の姿があった。怒った顔をしていたが、そのなかに半ば驚いた表情も見え隠れしていた。


武男はすぐに姿を消した。こちらに向かってくるのだろう。あたしは裸足のまま走り出した。玄関から遠い方へ、走りに走った。


他人(ひと)の視線が気になった。靴を履いていない、泣いている、そして走っている。他人が注目しないはずがないと思うと、視線を意識せざるを得なかった。


商店街の近くまで来て、あたしはパチンコ店の前で止まった。もしかして、と思った。もしかして、ここに母がいるのではないか。母がよく遊んでいるパチンコ店なのだった。


なかに入ろうとすると、偶然母が出てきた。あたしは母の前に立った。しかし、感情が(あふ)れてきて、何をどう言えばいいのか分からなかった。


母の目は大きく泳いでいた。何か後ろめたいことがあるのだと思った。


「お母さん……、あたしを売った?」


「何馬鹿な……」


否定する言葉に力がない。


「あいつが……、あいつが言ってた」


母は目をそらした。そして、まるで地面に向かって話すかのように言った。


「わたしも疲れてるのよ。いつまでも働けないし、いつ病気になるかもしれないし」


つまりどういうことなのか分からなかったけれども、言い訳しているのは理解できた。心当たりがある、ということだ。あたしは頭の天辺(てっぺん)を重たいもので打ち付けられたような気がした。


「売ったんだ……」


「何をもう……。わたしにどうしてほしいの」


「それでも親か」


あたしは呟いた。母は聞こえなかったようで、「何?」と訊き返した。


「それでも親か」


あたしは叫んだ。そこにいた何人かの人がこちらを見た。母の顔に怒りの気配が差したけれども、それはすぐに消えた。


あたしは嗚咽(おえつ)(こら)えるために口を押えた。そのまま走り出した。


あたしと武男。武男の方が大事なのか。どうして我が子よりも他人を優先できるのか。傷付いた我が子が死を選ぶとは考えないのか。母にとって性交はそんなに軽いものなのか。蚊に刺されたくらいに考えているのか。あたしには心がないと思っているのか。


悔しさと怒りとが涙となって表れた。


あたしに行先はなかった。走り疲れて、公園のブランコに腰を下ろした。力なく地を蹴って、あたしはゆらゆらとブランコに揺られた。


「警察には行けない」


武男だけの問題なら、迷うことなく警察の門を叩いたかもしれない。しかし、母が関係しているとなると、迷いが生じる。どんなに憎くても、母は母なのだった。憎しみと愛情。これら二つが心のなかで引っ張り合い、あたしの胸を痛めた。
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