第98話

文字数 1,019文字

「いい加減にしろ」

髭男は怒鳴った。あたしの腕を締める力が緩んだ。おかげで、あたしはより大きな反動を使うことができた。背泳のスタートのときのような姿勢と勢いで後頭部を髭男の顔面に突きあげた。

後頭部は髭男の人中(じんちゅう)辺りを(とら)えたようだった。めり込むような感触があった。

髭男は短い声を漏らした。力がなくなった。あたしは一気に腕を振りほどいた。髭男はあたしの腕を掴みなおそうとしたけれども、あたしはすり抜けた。そして、短距離走のスタート直後の勢いでヘグ婆に突進し、突き飛ばした。

あたしは部屋を出て、暗い階段を駆け下りた。背後に髭男が迫ってきているような気がして、かなり焦っていた。果たして、脚がもつれ、あたしはつんのめった。

「ここで倒れるわけにはいかない」

異常に集中していたせいか、わずかな光のなかでも、数段先の一段がはっきりと見えた。あたしはそこに片足を着いた。しかし、踏み留まることはできない。そのままの勢いで、さらに数段下の床までジャンプするように飛び下りた。

着地したところのすぐ前には扉があった。あたしはその扉を開けた。煙草やアルコールの臭いが鼻を()いた。カウンターに丸椅子、テーブル席がいくつかあり、そのうえにボトルやグラスが雑然と置かれていて、それらがダウンライトに照らされていた。一階がスナックだと、あたしはこのとき知った。客はいなかった。

あたしは玄関に駆け寄った。重そうな扉の取っ手を握り、がたがたさせた。開かない。取っ手の横に鍵があった。それを回した。確かにカチャッと音がした。しかし、扉はがたがたするだけで、押せないし、引くこともできない。あたしは鍵が二つあることを知らなかった。

階段の扉から髭男が現れた。

「開いてよっ」

あたしは扉に体当たりした。三度目の体当たりをするころには、髭男に腕を掴まれてしまった。

「放してっ」

あたしは髭男を蹴って、叩いた。けれども、あたしは床に倒されてしまった。

ヘグ婆も来た。

「ったく、このガキが余計なことを」

ヘグ婆はカウンターに入り、ガムテープを取り出した。そうして、二人してあたしを後手に縛りあげた。

「立ちな」

あたしは髪を掴まれ、立たされた。

階段の扉とは別の扉があり、その奥は生活空間になっていた。

あたしは風呂場に連れていかれた。浴槽には八分目を超えるくらいに水が張ってあった。

「膝を突け」

髭男はあたしの髪を下に引っ張った。あたしは洗い場に膝を突いた。洗い場はタイル仕様で、膝を突くには粗く、硬かった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み