第105話

文字数 1,127文字

どこかで犬の鳴き声がする。

「そう言えば、ゆきちゃんが子犬を拾ってきたことがあったなあ」

その子犬は、母に戻すように命じられた。ゆきちゃんは泣く泣く応じた。あたしはゆきちゃんに付き合った。

その途中、動物園に入った。

「こんなとこに動物園があったんだね」

ゆきちゃんは言った。

「知らなかったの?」

「お姉ちゃん知ってたの?」

「うん」

中型犬がやっと入るような狭い檻のなかに犬がいた。アフガンハウンドという、白い毛の長い、絵にかいたような犬だった。

その檻に近寄ると、老女が長い棒を持って現れた。犬は老女を見ると伏せて動かなくなった。頭を下げ、耳を倒し、上目遣いに老女を窺った。怯えているようだった。

老女は棒で犬を突いた。犬はキャンと悲鳴をあげ、飛びあがった。それから鳴き続けた。声の大きさは尻すぼみに小さくなったが、聞いたことのない声だった。突かれたので痛いのであろうが、その反応は極端であるようだった。

老女は腹部や尾の付け根を繰り返し突いた。犬はものすごい悲鳴をあげた。まるで切り刻まれているかのように。

周囲にスーツ姿の男性が集まった。あたしは誰かが老女をとめるのではないかと思った。あるいは、何をしているのかと問い(ただ)すのではないかと思った。

しかし、そうする人はいなかった。にやにや笑っていたり、興味深そうな顔をしていた。顔をそむける人、(にが)い顔をする人は、確かにいなかった。

あたしは老女を見た。すると、老女もこちらを見た。老女はあたしの疑問に答えるかのように、こう言った。

「この犬はライオンの餌になるからいいんだよ」

小学生のころ、水族館でピラニアの群れに小魚を入れる見世物があった。それを見て、あたしは「かわいそう」だと言った。そうすると、一緒に見ていた友達に、「相沢さんだって、お魚食べるでしょ」と言われた。あたしは違和感がありながらも、言葉を返せなかった。ここにいる人たちも、「肉を食べるのだから」と考えているのだろうか。

犬は伏せて、前脚に顎を載せ、動かなくなった。老女はそんな犬を押すように突いた。犬は体躯(たいく)を揺すられてもじっとしていた。棒が鼻先に触れるときだけ、嫌そうに顔をそむけた。

「これ電気棒だからね、鼻は嫌がるよ」

老女は犬の鼻ばかり攻めた。あたしは犬の嫌がる顔を見て、いたたまれなくなった。仮に餌だとしても、不当に傷付ける必要があるのだろうか。あたしは思わず言った。

「こんなこと、何の意味があるんですか」

老女は真顔で答えた。

「面白いじゃないか。食べられて役に立つ。遊ばれて役に立つ。大いに役立つ」

「そんな……。じゃ、その犬あたしが飼います。あたしにください」

あたしは先のことなど考えずに言っていた。

「馬鹿なこと言うんじゃないよ。ちゃんと金払ってるんだから」

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