第37話

文字数 699文字

「よく知らない人。でも、ユウヤって言ってた。商店街の入口でよく歌ってる。何度か見たことがある。……で、気付いたらケータイなくなってた」

「商店街……。ユウヤ……」

ヒロはこう呟いて、考える顔をした。

「知ってるの?」

「いや……。そいつ、何歳くらい?」

「よく分かんないけど、……二十代だと思う」

「二十代、ユウヤ……」

ヒロの表情は、まるでこの辺りは自分の縄張りで、そこにいるめぼしい与太なら誰でも知っているんだけど、と言いたげだった。

「またナンパされるかも」

あたしはヒロの不安を煽るように言ってみた。ヒロは答えなかった。あたしは更に続けた。

「なくしたケータイ、あの男に拾われてるかも」

ヒロは隣の民家の暗い壁を眺めて、上下の前歯を歯軋(はぎし)りするようにゆっくりと擦り合わせていたが、おもむろに、

「じゃあ、俺が話つけてやろうか」と言った。

「本当に?」

意外な返答だったけれども、目の前が明るくなるようだった。ヒロに期待できないと考えながらも、いざこんな風に言われると、いままでに経験したことのない柔らかい感覚に包まれた。

「ユウヤだったな。バンドマンなのか、そいつ」

あたしは頷いた。

「よし、分かった」

ヒロはこう言って、あたしの身体を触った。

勃起したペニスが当たった。

頭のなかの(かげ)に、ユウヤの記憶の気配を感じた。その瞬間、あれは他人事だと信じ込んだ。

記憶が再現されてからでは遅い。出てくる前に他人にならなければならない。テレビのなかの事件を観るように。

このときヒロが何をしたのか、記憶はあまりない。嘔吐感を堪えていた記憶があるのだけど、このときのものなのか、はっきりとしない。
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