第80話

文字数 949文字

目の前に現れたのは、五十(がらみ)の小柄な男だった。パンチパーマの髪が伸び、崩れて鳥の巣のようになっていた。一重の(まぶた)は腫れぼったく、口髭を(たくわ)えていた。毛穴の目立つ肌は赤黒い。

「目が覚めたか」

濁声で男は言った。酒と煙草と食べ物のカス、舌に()み付いた細菌、それらのものが混ざって発酵したような臭いがした。

あたしは少しのけぞった。嫌な顔はしないようにした。

あたしはこの男に助けられたのだろうか。しかし、どうしてあたしはほとんど裸なのだろう。もしかすると、どさくさに紛れてこの男はあたしに何かしたのだろうか。頭に色々な疑問が浮かんだ。

改めて見ると、男には目に見えない陰険な衣でも(まと)っているかのような雰囲気があった。さらによく見ると、腕や手の甲、首に不自然な火傷の(あと)や創傷があった。何をするとこんな風になるのだろう。

「帰ります」

あたしは言った。「ここはどこ?」だとか「どうしてここにいるのか」などとは訊かなかった。訊くと、この男と会話をすることになり、関わりを持ってしまうことになる。それを避けたかった。関わってはいけないと、本能的に悟った。

男は部屋のなかを覗き込んだ。変わったことはないかと確認しているようだった。

「入ってろ」

男は言った。

「帰ります」

もう一度言った。しかし、男はあたしの腕を掴んで、奥に押し込んだ。

「帰るって言ってるんです」

「帰れねえよ」

「どうしてですか」

男はじっとあたしを見て、何かを言いかけてやめた。しかし、すぐに、

「稼いでもらうからだよ」

この怪しげな場所、目の前の胡散臭そうな男、いまのあたしの格好、稼ぐためにあたしにできること、それにユウヤに絡んでこうなっていること、これら全てを頭のなかで並べると、男の言っていることの意味は察しが付いた。同時に、全身から血の気の引く思いがした。

「何であたしが」

あたしは理由を(ただ)さざるを得なかった。関わりたくない、などと言っている場合ではなかった。

「お前を買ったからだよ」

男は臭い息を吐く。

「買うって何ですか」

買って、稼がせる。――身体を売らされるという直感が確信に変わりつつあった。しかし、それは何としても見たくない現実だった。

男は黙っている。

「電話……、電話させてください」

買ったというのなら、そのお金を弁済すれば、解放されるはずだ。そう信じたかった。
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