第52話

文字数 1,144文字

「母親の愛情がないから、あたしには免疫がないのでは」


こんなことを考えたりもした。母の愛情に包まれている()は目に見えない保護膜に覆われている。その保護膜のおかげで男とのあいだに一歩(みぞ)ができる。あたしにはその保護膜がない。だから男が簡単に手を出せる……


いつのまにか太陽()が傾いていた。家に帰りたくなかった。けれども、中学生がずっと帰らないでいることも無理な相談だと分かっていた。ただ、結局降参するしかないと思われるのは我慢ならなかった。意地を張らざるを得なかった。


「このまま公園に寝泊りしようか」


都会の公園だし、夜でも煌々(こうこう)と明かりを(とも)すコンビニエンスストアも近くにある。意外に危険は少ないのではないかと考えた。しかし、この考えはすぐに否定されることになった。


「どうしたの、こんなところで」


喉仏(のどぼとけ)の大きい、細い男が声をかけてきた。グレーのスーツ姿でベージュのネクタイを締めている。


あたしは無視をした。男は優しい声で続ける。


「いや、さっきからずっと座ってるからさ」


この男もさっきから徘徊していた。最初は偶然だと思ったけれども、こちらを盗み見ながら遠巻きに歩いているのに、気付かざるを得なかった。こんな時間にスーツ姿の男が児童公園を何度も往来すれば、いやでも目に入る。


ただ、あたしに関心があるのかもしれないと思ったけれども、声をかけてくることまではしないと考えていた。手入れされているようには見えないくりんくりんとした天然パーマのような髪型に、銀縁の眼鏡姿。とてもナンパする度胸があるようには見えなかったから。


「別に。ブランコ好きなの」


「いくら好きでもこのまま座っているわけにはいかないでしょ。もう暗いし、帰んないと。もし帰るところないんだったら、僕の(うち)に泊めてあげるよ。もちろん無料(ただ)で。お腹空いてるでしょ? とりあえず御飯食べに行こうか」


あたしは男のほうを見て、はっきりと言った。


「泊めてもらわなくていいし、お腹も空いてない。ほっといてもらえますか」


「じゃあ、早く帰んないと。こんなとこでも、夜になると危ないよ」


「ほっといてって」


「何で帰らないの。訳があるんでしょ。相談に乗るよ。僕は二十八。ちゃんとした社会人だよ」


優しそうな声だけど、ねっとりと絡み付くような感じだった。


いつ家に帰ろうと、それはあたしの自由。――こんなふうに答えたところで、この男はあれこれ適当なことを言って絡んでくるだろう。一方で、この男がここにいるのも自由だ。あたしは黙って立ちあがり、歩き出した。男はすぐに寄り添ってきた。


「取り敢えず御飯食べよう。話はゆっくり聞くし」


「帰るんで」


あたしは男から離れようとした。


「そう言わないで。一緒に行こう」と、男はあたしの腰に手を回そうとする。


「触んないで」


あたしは男の手を強く払い()けた。
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