第71話

文字数 1,015文字

「文章を書いた紙、あたしももらえるの?」


「もらえるよ」


その紙はゆきちゃんを癒す助けになるかもしれない。あたしが勇気を出すことによってそれが手に入るのなら、あたしは裁判所へ行くべきなのだろう。


ここであたしが行かなければ、ユウヤを罰する機会が失われるかもしれないという焦りも、やはり生じていた。あたしは逮捕、起訴、書類送検、刑罰の決まりかた、執行猶予など、何も知らなかった。さらには民事事件、刑事事件の区別もできていなかったのだ。


「分かった。行くよ。どこに行けばいい?」


「ありがとう。助かるよ。俺の部屋。部屋の前。弁護士も一緒だから」


「弁護士も」


「うん。あと、裁判所へ行くこと、誰にも言わないでくれる? 親とかにも」


「え、どうして」


「俺もよく分からないけど、守秘義務の関係らしい。ま、知りたければ、向こうで直接訊いて」


ここでユウヤに説明を求めても無駄だろうとは思った。弁護士がいるというのなら、その弁護士に訊いてもよいだろう。


「分かった。いまから行くよ」


「うん、待ってる。できるだけ急いで」


ユウヤの声は軽くなった。深刻さが抜け落ちたようだった。


あたしは電話を切ると、階段を下り、キッチンに入った。母は立って電話をしていた。


「えー、わたしなんか全然だよ。おばさんだしー」


よそ行きの声のなかに、甘えた声遣(こわづか)いが混じっていた。


「そんなあ、からかってぇ」


母は片腕を組んで、片足に体重をかけていた。他方の足はスリッパの爪先を立て、ときどき踵を左右に振っていた。身体全体がくねくねし、稚気が溢れていた。


あたしはそんな母を横から見ていた。


母は甲高く笑った。首を傾けた際、あたしに気付いたらしく、こちらを見た。しかし、すぐに横を向いた。その声は急に抑制された。不自然な抑制で、ちらちらとこちらに投げ付ける視線と共に不機嫌になりつつあることを示していた。


いつもなら、あたしは一旦引き下がったに違いなかった。けれども、今回はそういうわけにはいかなかった。


動かないあたしを見て、母は不愉快そうな声を出した。


「何なの」


あたしは自分がゆきちゃんに食事を運ぶと言ったけれども、出かけるので母に運んでほしいと頼んだ。もし、ゆきちゃんが「いらない」と言った場合には無理強いしないでほしい、とも伝えた。


「分かったわよ」


母は邪険に言った。用が済んだのなら早くどこかに行け、と目が言っていた。あたしにどこへ行くのかとは訊かなかった。


最低限のことを告げたあたしは部屋に戻った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み