第86話

文字数 1,461文字

それから数日のあいだ、何も起こらなかった。

食事は一日二回与えられた。食べ物と飲み物の載ったステンレス製の丸盆が、ほぼ規則正しくあたしの前に置かれた。たいていはヘグ婆が運んできたが、まれに髭男が運んでくることもあった。

食べ物は、焼きそばやチャーハン、スパゲッティなど、油の絡んだものが多かった。残飯を食べさせられるのではないかと思っていただけに、案外まともに思えた。飲み物は水のようなお茶だった。かすかな酸っぱさだけが舌を刺激した。

錠剤も飲むように指示された。

「できたら困るだろ」

ヘグ婆は言った。

あたしは言われた直後、何のことか分からなかった。しばらくして、その意義を理解した。

トイレには困った。ストレスのせいか下痢をし、頻繁に利用しなければならなかった。このとき、脱走を考えることはなかったけれども、あまりにもインターフォンを押すので、それを疑われるのではないかと、余計な気を(つか)った。

しかし、ある日からインターフォンを押さなくても済むようになった。ヘグ婆が

を運んできたからだ。

あたしは反発の意を示した。ヘグ婆は取り合わなかった。おまるだけ置いて、襖戸の向こうに消えた。

「本当に女の子が閉じ込められていたんだ」

このおまるが物語っているように思えた。

展望のない、いまの現実が再びあたしを取り巻いた。暗い未来に胸を()され、そこから逃げたいと思う。しかし、逃げ場がない。どこかにあるはずだと目を凝らしてみても、四方に立ち込めた濃い霧が視線の行く手を(はば)んでいる。逃げ場を探せる状況ではないのに、探そうとして打ちのめされる。

打ちのめされても、諦め切れない。時間が経つと同じことを繰り返し考え、同じ結論に達し、神経が疲れ果てる。何度同じことを繰り返しただろう。

あたしはおまるに目をやった。おまるは、子どものころと違って、小さく見えた。あたしは (またが)ってみた。三輪車のハンドルのような取っ手を握った。すると幼いころを思い出した。

「ゆきちゃんに会いたいなあ」

目に涙が差し含まれた。ゆきちゃんだけでなく、母ですら懐かしみの対象だった。

知識もない。経験もない。邪知ですら浅薄な知力の持ち主、すまわちユウヤに(かな)わない。ただの中学生。それにもかかわらず、張り合えると勘違いした結果が、いまの状況だった。あたしは自分が情けなかった。

けれども、あたしはいつ賢くなれたのだろう。娘を売るような母であっても、相談しなかったあたしは責められるべきなのだろうか。こう考えるあたしは甘えているのだろうか。甘えという言葉一つで簡単に否定されるのは納得できない気がした。

それにしても、と思った。ユウヤは一体どういうつもりなのか。他人(ひと)を物のように売るなんて、よくもそんなことができたものだ。あたしだけでなく、ゆきちゃんまでも売ろうとしていた気配がある。

確かに世話になったけれども、その費用が三百万円なんてことはあり得ないだろう。

「借金返済に困った。働いて返すのは苦しい。そうだ、怜佳を売ってしまおう。妹も一緒に売れれば、ボーナスも得られる。無理やりやられても、自分から近付いてくるような馬鹿だ。ちょろい女さ」

こういうユウヤの思惑を想像すると、あたしは忌々(いまいま)しくてしかたなかった。ユウヤの頭を叩き潰したい衝動に駆られた。

あたしは畳を掻きむしった。疲れると、放心した。そして、しばらくすると、同じことを考え、同じように畳を掻きむしった。畳を掻きむしらないときは、布団の端を噛んで引っ張った。

こんなことを繰り返していたある日の夜、ヘグ婆がスーツ姿の男を連れて襖戸を開けた。

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