第77話

文字数 1,011文字

「飲みたくないよ」


あたしの胃は縮こまっていて、どんな食べ物、飲み物をも受け付けそうになかった。


「怜佳は何も心配することはない。堂々としてて」


ユウヤはコーヒーを差し出した。あたしはコーヒーに手を出さなかった。


「怜佳は俺のこと憎いだろ。殺したいくらい憎いだろ」


あたしは何も言わなかった


「考えてみれば、俺は怜佳にとって酷い男だったよな。与えてもらうばっかりで、与えることはなかった。……コーヒー一つ淹れてやることなかったもんな」


ユウヤはカップをあたしにぐいっと近付けた。あたしはユウヤの殊勝(しゅしょう)さに感じ入ってそれを受け取った。


「飲んで。いまの俺にできることはそれだけ。刑務所から出てきたら、何でもする。刺してくれてもいい」


「刺す」などと穏やかではない言動を前に、与田は何も言わなかった。一言たしなめてもよいのではないかと思ったけれども、運転に集中しているせいか、話せないようだった。あるいはもしかすると、あたしとユウヤとの惚気(のろけ)のようなやり取りに辟易して、口を開く気になれないのかもしれなかった。


あたしはコーヒーを口に運んだ。口のなかに広がった液体は濃い砂糖水の味がした。砂糖を袋から直接ドバッと入れたのではないかと疑いたくなるくらいだった。その甘さのなかに苦味が走った。


「このコーヒー、ユウヤが作ったの」


「え? ああ。不味い?」


「別に」


ユウヤが作るコーヒーなのだから、こんなものだろう。あたしは半分ほど胃に流し込んで、コップを返した。


ユウヤは残ったコーヒーを魔法瓶に戻した。


「怜佳のために作ったコーヒーだから問題ない」


少し驚いたが、他に処理のしようもないだろう。


雨が弱まった。


あたしは車酔いしたのか、身体がだるくなり始めた。脳に膜が張ったような感じもし始めた。あたしは頭を振ったり、目をしばたたいて自分を元気付けようとした。


ほどなく、警察署の前に着いた。


ユウヤはあたしを深く見つめた。そしてごくりと唾を飲み込み、「じゃ」と簡単な挨拶をして車を降りた。ガードレールをまたぎ、自転車や歩行者をやり過ごして、署の数段の階段を軽やかに駆けあがった。ユウヤは振り返ることなく肩で扉を押して、なかに入った。


あたしの位置からなかは見えた。受付だか総合案内だか知らないけれども、ユウヤはその前に立ち、警官に話しかけた。座っていた警官は中腰になり、ある方向を指差した。ユウヤはそちらを見、また向き直って警官に頭を下げ、歩き出した。ユウヤは影に消えた。
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