第100話

文字数 764文字

「二度と逆らわないか」

髭男は言った。あたしは返事ができなかった。

「二度と逆らわないか」

髭男はあたしの頭を給水口の下に運んだ。側頭部を水が打った。これだけで充分な威嚇になった。いまの苦しさが蘇る。

「逆らいません」

あたしは叫んだ。

髭男は力を緩めた。しかし、ただちにあたしの頭を水面下に沈めた。あたしは錯乱しそうだった。ただ、すぐに引きあげられた。

「これを見ろ」

髭男は言った。あたしにではなく、ヘグ婆に言ったようだ。どうやら、鼻血のことを言っているらしかった。

「金輪際舐めたマネするんじゃないぞ」

髭男はあたしの頭に力を加えた。あたしが返事をするまもなく、

「返事は」

あたしは頷いた。言葉を放つにはショックが大き過ぎた。

「返事っ」

あたしの頭は(ゆす)られる。

「分かりました」

これだけ言うと、喉に何かが引っかかり、あたしは連続して咳をした。

このとき、あたしは死ぬのが恐いと本気で思った。こんなところにいるくらいなら、死んでしまいたい、死んでしまおうかと考えないわけではなかったが、そんな簡単な問題でないと、痛いほど思った。

「客を丸め込もうとしたって無駄だよ」

客が選ばれていると、このとき知った。

「客も一蓮(いちれん)托生(たくしょう)

意味が分からなかったけれども、もはやそれはどうでもよかった。要するに、あたしに逃げる機会はないということなのだろう。

「部屋に戻れ。濡れたまま歩くなよ」

髭男が言い、タオルはヘグ婆に渡された。

部屋に戻ると、シャツと短パンを渡された。ストーブはなかった。そもそも小さな火気すらなかった。客に喫煙も禁じているようだった。火事を恐れたのだろう。

エアコンはあった。主として客のためのものだろうが、あたしも使用することができた。

掛布団などないので、ぺらぺらの敷布団に蓑虫(みのむし)のように(くる)まって寝た。濡れた髪が冷たかった。しかし、いつのまにか眠ってしまった。


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