第69話

文字数 1,663文字

あたしとゆきちゃんは自宅に戻っていた。母は何も言わず、あたしと母は何もなかったかのように日々を過ごしていた。もちろん、お互いの隠しきれない感情が二人の関係を多少ぎくしゃくさせることはあった。


その感情は、いつか清算されなければならない。ただ、目下のところ、それは無視し得る小さな問題に過ぎなかった。


克服しなければならない問題は、ゆきちゃんの慰藉(いしゃ)と救済だった。ゆきちゃんは寝込んでいた。


ゆきちゃんはどうすれば救われるのだろうか。


母に相談するにしても、告訴するにしても、まずゆきちゃんの気持ちがどこにあるのか考えなければならなかった。しかし、ゆきちゃんと話すことはできなかった。ゆきちゃんは口を開こうとしなかった。


あたしはゆきちゃんの沈黙に接するたびに、悪いことをしたという気持ちに(さいな)まれた。


あたしがもう少ししっかりしていれば、今回のことは起こらなかった。しかし、その遠因は、詰まるところ母にある。あたしはゆきちゃんとの対話に手応えを感じられないたびに、自分に対する不甲斐なさからくる怒りと、母に対する怒りとの制御に、余計なエネルギーを費やさなければならなかった。


そして、そのエネルギーはしばしば足りなくなった。足りなくなったとき、あたしはすべてを破壊したいという衝動に駆られた。その衝動を抑えるために、あたしは部屋をうろうろ歩き、柱に頭突きをし、壁を叩き、畳を踏ん付け、歯軋(はぎし)りをした。


復讐は何も生まない、と綺麗事(きれいごと)にも思える言葉を聞いたことがある。しかしあたしは、復讐を認めれば社会が混乱するので、世を治める側に都合のいい論理を、さも真理であるかのように見せかけているだけではないか、という疑いを捨てることができないでいた。


ところが、実際にテレビで、顔を切り付けられた中年女性が「初めは憎かった」けれども、「許せた」と、加害者の若い男と一緒に映りながら、言っているのを観たことがある。その若い男は、しばしば被害者を訪れているとのことだった。


あたしは女性の頬の大きな傷を見ながら、本当に許せる日が来るのか、と信じられない思いがした。


「突発的な行動だけは慎もう。復讐はいつでもできる」


こういう予感に取り敢えずは従っておくべきなのか。あたしはどうしてよいのか分からないので、いや、分からないからこそ、そう考えていた。


そんなある日、携帯電話が鳴った。ユウヤからだ。あたしは何事かと思った。


「謝りたい」


ユウヤは言った。


「謝る?」


あたしは思わず訊き返した。何を言ってるんだ、謝って済む問題か。死んで詫びろ。猛悪(もうあく)な言葉があたしのなかに渦巻いた。


「驚いた? 無理もないけど」


「別に」


あたしは敢えて落ち着いた調子で言った。ユウヤの言動に一々驚いたりしない、すべきことを淡々とするだけだ、もう同じ次元にはいないよ、と暗に示したかった。


「誠意をもって謝りたいんだよ。弁償もする。だから弁護士も立てた。で、裁判所に行くから、いまから来れる?」


「裁判所? あたしが?」


あたしは虚を()かれるようだった。警察に赴くことは想定できても、あたしが裁判に関わるなど思いもしなかった。


「怜佳だけでなく、妹も」


「ゆきちゃんは無理でしょ。何言ってんの」


あたしは苛立った。それが声にも出てしまった。


「まあ……、そうか。でもさ、現実を受け入れて、向き合わないといけないだろ」


「はあ? よくもそんなことが言えるよね。自分が何言ってるか分かってる? このウジ虫」


怒りが(こう)じた結果、あたしは電話を切ってしまった。しかし、すぐに後悔した。ユウヤに償わせる機会を、あたしが潰してしまったのではないか。


落ち着かないでいると、また電話が鳴った。ユウヤからだ。


「怜佳の気持ちは分かる。とにかくいまは冷静になってくれ」


冷静に。そうであるべきだと、あたしも思った。法律が絡むのなら、感情的にならないほうがよいはずだ。しかし、あたしは我慢できずに「無神経だ」と何度も迫った。


ユウヤはあたしの抗議に「悪かった」を繰り返した。百回でも繰り返しそうだった。あたしは振りあげた拳を一旦下ろさざるを得なかった。
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