第82話

文字数 897文字

「さっきここで塁にもされてただろ」

髭男はにじり寄ってきた。

噛んでやる、とあたしは思った。武男にしたように、こいつも噛んでやる。

「魚心あれば水心って知ってるか」

髭男はにやにやしながら言った。あたしはそれを聞いたことはあっても、意味については漠然と知っているだけだった。髭男はさらに言った。

「学校で習わなかったか」

「そんなの知らない」

ふーん、と髭男は煎餅布団に目をやり、

「ま、いい子にしてれば、それなりにいいことがあるってことだ」

可能な限り抵抗するつもりでいたけれども、有利な結末は見えていなかった。敵は何人いるのだろうか。

首尾よくいった場合よりも、いかなかった場合の結末が目の前にちらつくと、戦意が萎えた。すると、戦意の萎えた部分に弱気が現れた。そのせいか、髭男の欲求をすんなりと満たせば、と、ふと思った。この髭男と一度交われば、それと引き換えに逃がしてもらえないだろうか。

けれども、三百万円の話が本当だとして、一度の性交がそれと引き換えになるとは思えなかった。そもそも三百万円はどこから出たのだろう。この髭男が出したのか。他の誰かが出したのか。それによっても答えは変わるのではないか。いや、変わらないのか。

迷って突っ立っているあたしに髭男は一歩近付いた。髭男の小指はペンチで曲げられたかのように変形していた。その手が伸びてきて、あたしの乳房を下から持ちあげた。あたしは奥歯を噛み締めた。

髭男は乳房を弄ぶと、あたしを抱き寄せた。

「いやっ」

あたしは意識せず髭男を押し返していた。

「おとなしくしてろ」

髭男は低い声で言った。ほとんど同時に、髭男の背後から大声が飛んできた。

「あんた、何してんの」

髭男はビクッとして固まり、すぐに振り返った。

「あんた、変なこと考えてんじゃないわよね」

この部屋の前には廊下を挟んで階段があり、廊下と平行に階段は下っていた。その階段をあがっている途中らしい老女が顔だけ覗かせていた。

「まさか売り物に手を出そうってんじゃないよね」

老女は見かけによらず機敏に階段をあがってきた。

「まさかだよ。そんなことするわけないよ。な?」

髭男はあたしに同意を求めた。あたしは何とも答えなかった。
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