第48話

文字数 1,236文字

追憶の夢から覚めたあたしは、川縁の(よど)みを眺めていた。


しばらくすると、またかけ声が聞こえてきた。


国際大学のボートが、こんどは上流に向かって進んでいた。


緩やかに流れているように見えて、案外急なようだ。下りの場合と異なり、容易には前に進まないらしかった。かけ声も怒鳴っているように響いた。部員も必死なのだろう。


自分が漕いでいるわけでもないのに、あたしの身体には力が入った。


「よし、もっと」


あたしは心のなかで繰り返した。


ボートはゆっくりだけれども、着実に進んでいた。


オールが水を(とら)え、腕が引かれるたびに、あたしは地面に接した足に力を込めた。


「ほら、もっと」


ついには声が洩れた。


ボートは徐々に遠ざかっていった。そのまま眺めていると、ボートは小さくなったきり、動いているのか、いないのか、分からなくなった。


「何か夢中になれるものがあれば、悩まなくて済むかもしれない」


こう考えて、中学に入学してすぐにテニス部に入ったことを思い出した。しかし、どういうわけか、先輩たちに辛くあたられて退部せざるを得なくなった。


澄ましている、という理由でいやがらせをされたことがあるので、常に笑顔を心がけたし、返事も一つ一つ「はい」と声に出してもいた。ゆきちゃんを頭に浮かべ、素直さも意識した。でも、駄目だった。


「あたしのどこがいけないのだろう」


何かが足りないから、あたしは酷い目に遭うのではないかと思えた。


しかし、何が足りないのか、さっぱり分からなかった。


誰かが正解を知っているとも思えなかった。


「もしかすると、これが運命?」


こう納得するしかないのだろうか。


「だとすれば、前世のあたしはよほど悪い人だったんだ?」


ふと対岸の景色を見たとき、写生を思い出した。その記憶に引きずられて、松島に声をかけられたときから美術準備室でのできごとまでが、一つの絵になって突然頭に蘇った。


「くそっ」


あたしは声に出した。そんなことを思い出す自分に対する苛立ちも交じっていた。


「忘れる努力が足りないんだ」


とっさに目下の澱みに浮いている葦の切れ端に注意を向けた。いやな思いの入る余地がないくらい、他のことで頭を満たせばよいのだ。


葦の長さは三十センチくらい。色は薄茶色で、焦げたように黒くなっている箇所がある。水面の上下に合わせて揺ら揺らと動いている。


他の枯れた葦がいくつか束になっているのに対し、この葦は束の外側で孤立している。離れていきそうだけど、離れない。何だか巣立ちを恐がっている雛のようにも思える。


離れては戻り、戻っては離れる。こんなことを繰り返している葦に、流れてきたテニスボールがぶつかった。その拍子に葦は流れ始めた。


すぐにゴミの澱みに吸い寄せられそうになった。けれども、ぎりぎりのところで反発した。


数メートル流れて、また同じことが起こった。しかし、その後は順調なように見えた。


またどこかで引っかかるかもしれない。


でも、行けるところまで行ってみなよ。


あたしは、ただの枯れた一本の葦の流れに、何か意味を見出したかった。
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