第114話

文字数 1,088文字

「ほーほー」

「ほーほー」

一定のリズムで声に出していると、心地よくなってきた。眠りを誘わない、不思議な眠気に包まれる。

「ほーほー」

あたしはしばらく口ずさんでいた。

そのうちに夢心地の世界を漂っている気分になった。自由に過去へ行き、想像の未来を訪れた。

母とゆきちゃんと一緒に訪れたユリのテーマパーク。帰りに母が買ってくれた一輪のユリの花の大きさ。それを髪に挿して想像した中学生のあたし。それから高校生のあたし。スーツを着て、会社に行って、たまにケーキを買って帰り、三人で食べる……

「気持ちいい」

このままずっとふわふわとしていたい。そう思っていると、たくさんの赤い花を見つけた。細長い花弁(はなびら)に、線を描いて飛び出すような無数の花糸(かし)が印象的だった。昆虫の触覚のように見える。花は風に揺れていた。

強い風が吹いて、花弁が落ちた。

「食べることできるのかしら」

あたしは落ちた花弁を摘んだ。薄っぺらいはずなのに、案外厚かった。しかし、どこか不自然だった。色が黒くなっている。どうしてだろう。

突然、夢見心地の世界が暗闇に変わった。いつもの赤暗い部屋だった。あたしはいつのまにか、隅に立っていた。目の前には、指に摘まれた黒い物体があった。

「何だろう」

あたしはじっと見た。そして、それが大きなクロゴキブリだと気付いたとき、正体を見極めるためにじっくり見ようとしていた神経と、あまりにも驚いて放り出すことを命令する神経とが交錯して、あたしの指は硬直した。

「いいっ」

あたしは引きつりそうになる指を意志の力で広げ、ゴキブリを投げ捨てた。ゴキブリはいつのまにか死んで部屋に転がっていたものだったようだ。

「何を考えてんの」

自分を怒りたくなった。見るだけでも恐怖を覚えるゴキブリを、死骸とはいえ、手で掴むとはいったいどうなっているのだろう。何が起こっているのか。

あたしはどうしたんだ。

あたしはいったい何なんだ。

心臓をどきどきさせながら、あたしはしばらく動けなかった。……

悩んだ結果、何の解決を得なくても、月日は過ぎていく。あたしの心の状態とは関係なく、男はやって来る。

「やっと会えたね、うさぎちゃん。何日ぶりだっけ」

あたしは会いたいと思っていないけど。

「見つけたよ、子猫ちゃん。寂しかったよ」

知らないよ、そんなこと。

「こんにちは。僕のこと、覚えてる?」

覚えているよ。人の話を全然聞いていない(ひと)だよね。

この男に限らない。謙虚な物言いをして、こちらの事情について理解あるような態度を示しはするものの、結局はそれだけで終わる男たち。気を(つか)う素振りを見せるけれども、あたしの体調不良の訴えを聞き流し、自分の欲求は満たしていく。

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