第26話

文字数 1,685文字

あたしは濡れた頬を手で拭いて、

「ゆきちゃん、真似しなくていい。部屋に戻って」

「お姉ちゃんも一緒に」

「あたしは無理だから……」

あたしは事の顛末(てんまつ)をゆきちゃんに話した。

「そんなことで何でそんなグチャグチャにされるの? 何で正座させられるの?」

「それは……、あたしが……」

このときは、母を怒らせたあたしが悪いとい気がしていた。

「お母さん、恋人(おとこ)のことになると狂うから」

ゆきちゃんはあっさりと言ってのけた。

「とにかく、ゆきちゃんは戻って」

ゆきちゃんは答えなかった。

「ゆきちゃんの気持ちは嬉しいよ。でも、ゆきちゃんにそんなことされると逆にお姉ちゃん困るの」

「何で」

「何でって……。ゆきちゃん、このこと関係ないし。ゆきちゃんが意地張ってもしかたないし……」

正直なところ、ゆきちゃんに一緒にいて欲しかった。ゆきちゃんがこうしていれば、母のほうが根負けして、あたしは解放されるかもしれないと思った。解放されないにしても、一人でいるより、二人でいるほうが心強かった。

一方で、ゆきちゃんのことを心配もした。単純すぎるように思えた。もう少し狡賢(ずるがしこ)く振舞ってもいいのではないだろうか。学業成績のよいゆきちゃんだったけれども、こういうところが直情的に動くゆきちゃんの象徴のように思えた。他方、そこが大人の目には素直に映り、気に入られるのかな、と無足な考えを巡らせたりもした。

ただ、ゆきちゃんばかり可愛がられて――などと、あたしの胸に嫉妬心が宿ったことは一度もなかった。あたしはあたし。妹は妹。こういう分別があったからかもしれないし、姉として妹は守られるべき存在だという自覚があったからかもしれない。

しかし、何よりも、罪の意識が大きかったと思える。幼いころの風呂場での記憶。あのとき、ゆきちゃんが(けが)されていると直感していた。それを母に言うべきだとも思っていた。

けれども、どう伝えてよいのか分からなかった。言って、嘘つきだと罵られたらどうしようという恐怖が、見たままを話すという素直さの邪魔をしていた。

そうして、いつか、いつかと思っているうちに十年が経ってしまっていた。そのあいだ、言うべきことを言わないという後ろめたさは、あたしの胸のなかでどんどんと影を増していた。そしてそれが、ゆきちゃんに対する嫉妬心を黒く染め付け、消し去っているのだと思えるのだった。

「本当に助けて欲しいときは、そう言うから、そのときお姉ちゃんを助けて」

こういう趣旨を異口同音に並べて、やっとゆきちゃんを説得した。

ゆきちゃんは部屋に戻った。

しんとした暗い玄関で、あたしは脛にじわりとした痛みを感じながら母のことを考えた。

思い起こせば、母はあたしが幼いころからずっと気分屋だった。

「お母さん、ずるい」の一言でも、あるときは「ちっともずるくないよ」と笑顔で迎えられ、別のあるときは「親に向かって『ずるい』とはなにごとか」と叩かれなければならなかった。

同時に、散漫な人でもあった。「あんた学校は?」と、夏休みに訊くことがあった。すでに登校しているのに、「休みはいつまでなの?」と言うこともあった。

母はまた、何をするにも、物事を並行して処理することができなかった。大きくも小さくも一つに気が向くと、他はほとんど留守になった。だから、料理と作るときはよく失敗をした。恋人に夢中になると、子どものことですら意識から遠のくようだった。

あるときなど、昼間に恋人と布団のなかで裸で抱き合っていることさえあった。あたしに気付いても、やめる素振りなど見せなかった。……

ふと、二階で戸の開く音がした。そして、階段の鳴く音がみしみしと静かに響いた。ゆきちゃんが再び現れた。

「これ敷いとけば少しは楽だよ」

ゆきちゃんはバスタオルを渡してくれた。

ここでまた、受け取る受け取らないの押し問答を繰り返してもしかたがない。

「ありがとう」

あたしは受け取った。

「これも」

ゆきちゃんは飴玉を手渡してくれた。

「ゆきちゃん……」

あたしは笑顔を見せた。

それがゆきちゃんに見えたかどうかは、分からなかった。
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