第53話

文字数 974文字

ズボンのポケットには携帯電話が入っていた。あたしにはそれを取り出して、通報するぞと脅す手段が残っていた。しかし、そうするのは躊躇(ためら)われた。携帯電話を男に取りあげられてしまったら、あたしはここだけでなく、これからの唯一の安全弁を失う。携帯電話を取り出すのは、あくまでも最後の手段だ。


「そんなに興奮しないで。僕はただ力になりたいだけなんだよ」


「ほっといてって言ってるでしょ」


あたしはほとんど怒鳴っていた。声を大きくする以外、抵抗する方法がなかった。


そのとき、大きな声に反応したのか、突然犬が吠えた。二人組の女性がそれぞれの愛犬を散歩させているところだったようだ。


「どうかしましたか」


女性の一人がこちらに話しかけた。


「何でもないですよ」


男は静かに答える。


「付き(まと)われてるんです」


あたしはすぐに男の言葉を打ち消した。


「いや、何でもないんです。ただの痴話喧嘩ですよ」


男はあたしの腕を掴んで、女性たちに向かって答える。


「違う。触られてるんです。知らない人です」


警察呼びましょうか、と女性が言うと、


「いや、必要ないです」


「お願いします」


努めて冷静でいようとすることがありありと分かる男の声と、勢いのあるあたしの声とが交錯した。


女性は携帯電話を取り出した。その途端、男は疾走した。「逃げ足だけは速い」という表現がぴったりな身のこなしだった。


「ありがとうございます」


あたしはお礼を言った。


「どうしたのその格好。あの男に何かされたの」


女性は少し近付き、あたしの足(もと)を見た。女性たちは二人とも四十よりもうえの年齢に見えた。ラフな服装だったけれども、長い髪を後ろで束ね、微かに香水の香る上品そうな人たちだった。犬は茶色の柴犬。もう一頭は白いプードルだった。


「いえ、ここで急に絡まれたんです」


「そうなの。でも、警察には言っといたほうがいいかな」


女性は携帯電話を操作しようとした。


「いえ、ホントに大丈夫です」


あたしの口調が強かったせいか、女性は操作を中断した。代わりに質問をした。


「靴はどうしたの」


あたしは答えるのに一瞬焦ったけれども、自分でも驚くほど、それらしい返答ができた。


「走ってるんです。陸上部なんで」


「え? スパイクとか履かないの」


「こういうときもあるんです」


女性たちは少し考えているようだった。あたしはこの場を早く去りたくて、もう一度お礼を言い、彼女たちから離れた。
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