第65話

文字数 1,430文字

入口を(くぐ)ると、レジが横一列に並んでいる。奥のレジの横がトイレだ。買い物客でごった返すなか、あたしは真っすぐトイレに向かった。個室で汚れを処理し、トイレットペーパーを折りたたみ、厚く重ねて脚のあいだに()てがった。


洗面台で手を洗っているとき、鏡に映った自分を見て、思わず目をそらした。「いまに見ていろ」などと思える展望がなかった。変わりようのない自分を横目で見るしかなかった。


外に出ると、急に寒さを感じた。真冬の寒さではないので我慢はできる。しかし、歩き回ってもしかたないと思った。どこをどう歩くのか、考えるのも面倒になった。


恐らく、ユウヤの部屋にはオンナがいるのだろう。けれども、彼女はあたしのことを知らないはずだ。建物の向かいにあたしがいたところで何の支障もあるまい。


公園のブランコに座っていても、アパートの前にいても変わらないのであれば、オンナと入れ違いに帰ることのできるアパートの前で待つほうが合理的だ。あたしは脚の付け根に歩きにくさを感じながら、アパートの前まで歩いた。


都会にあって、風呂付きで家賃四万円というだけのことがあり、やはり古いアパートだった。


日中の記憶があるので、暗いなかで見ても充分にその古さを認めることができる。ひび割れ、欠けはそれぞれ複数あった。昭和から蓄積された汚れが膜となって全体を包んでいて、そのなかで特に汚れの酷い箇所が黒く浮いていた。


二階建てで、各階に四部屋ずつあった。明かりが点いているのは、一階の(ひと)部屋と二階のユウヤの部屋だけだった。


近所付き合いがないので、明かりの点いていない部屋に借主がいるのか否か、分からなかった。


ユウヤの部屋の隣に人が住んでいるのは、トイレを流す音、戸の開閉の音、咳払いなどから察しが付いていた。ただ、昼にその気配があったり、夜にその気配があったりと、定まらなかった。その顔を見たことはない。ユウヤも見たことがないと言っていた。


あたしは向かいの建物の壁を背にして、ユウヤの部屋の明かりをぼんやりと眺めていた。光の加減からして、奥の部屋の明かりが届いているのだろう。


通りに人影はほとんどなかった。一人か二人、目の前を通り過ぎた気がする。生活音もあったような気がするが、記憶は判然としない。あたしはただキッチンの窓の明かりを見あげていた。


部屋を出て一時間ほど経っていた。ユウヤは二、三時間空けてくれと言っていたので、あたしは少なくともあと一時間は待たなければならなかった。


あたし自身、待つつもりでいた。


しかし、窓の明かりを眺めていても、そこに人の動く気配を認め得ず、結果、あたしは待たなくてもよいのではないかと思うようになった。


もちろん、窓に人影が映ることなど、そうたびたびあることではない。それは分かっている。けれども、このときのあたしは、肌寒さと腹痛にちくりちくりと刺され、早く帰りたいと思っていた。


そのせいか、「来客が既にいないのなら、約束の時間前であっても帰りたい」という考えが、いつのまにか「早く帰りたいので、来客はもう引き取っていて欲しい。いや、もう既にいないのでは? 確かめよう」という考えに変わってしまっていた。


あたしはすぐに動いた。階段をあがり、わずかに歩を進め、扉の前に立った。ピクリとも動かず耳を澄まし、なかの気配を探ろうとした。しかし、何も掴めない。


あたしは面格子の隙間に手を入れ、音をたてないよう慎重にキッチンの窓を開けた。そして、三センチほどの隙間から、そっとなかを覗いた。
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