第36話
文字数 1,516文字
携帯電話を再び持つようになると、すぐにヒロから連絡があった。そして、彼の塾の帰り、近所の公園で会うことになった。
約束の時間、公園の前でヒロと落ち合うと、二人でなかに入った。
小さな公園だった。北と東が民家に接し、南と西が道路に接していた。道路との境は四角く刈りあげられた背の低い木々の植え込みになっていた。人目を忍ぶようなところではない。
無言のまま、ヒロに付いて歩くと、バリッ、バリッとスナック菓子を踏むような感触があった。外灯のもと、地面を見ると、あちらこちらに蝉の死骸が転がっていた。
鉄棒の近くで、ヒロは足を止めた。ヒロは振り向くと、いきなりあたしを軽くビンタした。
あたしは瞬きを忘れてヒロを見た。
「電話に出なかったから」
「え?」
「お仕置き」
ヒロはもう一度叩いた。
「ケジメは必要。約束を破って、迷惑をかけたんだから」
ヒロは淡々と言った。その表情に怒りは認められなかった。普段と変わらない。
怒ってもいないのに、人を殴ることができる。この心根が分からず、あたしは口を利きえなかった。
「愛してるよ」
いまのことがなかったかのように、打って変わって、ヒロはあたしを抱きしめた。
「お仕置きはお仕置き。これはこれ」
ヒロは耳元で囁 いた。
わずかに湿った風が緩やかに流れた。つんとする樹液の香りのなかに、ところどころ甘い香りがあった。
ヒロはじっとあたしを見ていた。あたしの「愛してる」を待っているのだ。しかし、ヒロの言う「愛」って何なんだろう。叩いたり、抱きしめたり。あたしが人形のように全てを受け入れることなのだろうか。あたしは思い切って言ってみた。
「いくら約束であっても、事情によっては守れないことはない? ケータイなくしてたんだけど、それでもあたしが悪いの?」
相応の理由なく叩いたのだから、ヒロはあたしに謝らなければならない。――こういう展開を読んだ。
もっとも、実際に謝ってほしいと思ったわけではない。ヒロは普段「女は男に従うべし」と考えているのだから、女のあたしに謝ることなど期待できるはずもなかった。
あたしだって怒ることはあるのだ。ヒロに分かって欲しかった。そして、そういう自分を確認したくもあった。
ヒロはあたしを抱きしめたまま、また耳元で言った。
「いつ、何でなくしたの」
こう言われると、あたしは答えに窮した。本当のことは言えない。
ヒロは上体を反らし、あたしを見据えた。あたしの表情から、微妙に風向きが変わったのを悟ったらしく、余裕を持ったようだった。ヒロは諭 すように続けた。
「なくしたなら、なくしたことを教えてくれなきゃ」
ごめんなさい。いつものあたしなら、こう言ったはず。でも、踏ん張った。
「どうやって? 家に電話できないでしょう」
あたしの声は震えていた。
ヒロは一瞬言葉に詰まったけれども、それを誤魔化すかのように息を吸い込み、
「塾の前で待っておくとか……。愛する人のためだったらできるだろ」
あたしは言葉を返せなかった。
「ある男に携帯電話は壊された。その男に酷い目に遭わされた。それをヒロに言ってどうなるの? 解決できるの? あたしにはあたしの事情があるの。それを簡単に「愛」なんて言葉で否定しないでほしい」
心のなかで、こう意識したとき、あたしはやはり自分を弁護したくなった。踏み付けにばかりされたくなかった。あたしは言った。
「ケータイ、いつのまにかなくしてたの」
「それさっき聞いた。で、……何してて?」
ヒロは気のない返事をした。話はほぼ終わったと思っていたようだ。
「ナンパって言うのかな、付きまとわれてた」
「誰に」
ヒロは急に真剣な顔付きになって、あたしを見た。
約束の時間、公園の前でヒロと落ち合うと、二人でなかに入った。
小さな公園だった。北と東が民家に接し、南と西が道路に接していた。道路との境は四角く刈りあげられた背の低い木々の植え込みになっていた。人目を忍ぶようなところではない。
無言のまま、ヒロに付いて歩くと、バリッ、バリッとスナック菓子を踏むような感触があった。外灯のもと、地面を見ると、あちらこちらに蝉の死骸が転がっていた。
鉄棒の近くで、ヒロは足を止めた。ヒロは振り向くと、いきなりあたしを軽くビンタした。
あたしは瞬きを忘れてヒロを見た。
「電話に出なかったから」
「え?」
「お仕置き」
ヒロはもう一度叩いた。
「ケジメは必要。約束を破って、迷惑をかけたんだから」
ヒロは淡々と言った。その表情に怒りは認められなかった。普段と変わらない。
怒ってもいないのに、人を殴ることができる。この心根が分からず、あたしは口を利きえなかった。
「愛してるよ」
いまのことがなかったかのように、打って変わって、ヒロはあたしを抱きしめた。
「お仕置きはお仕置き。これはこれ」
ヒロは耳元で
わずかに湿った風が緩やかに流れた。つんとする樹液の香りのなかに、ところどころ甘い香りがあった。
ヒロはじっとあたしを見ていた。あたしの「愛してる」を待っているのだ。しかし、ヒロの言う「愛」って何なんだろう。叩いたり、抱きしめたり。あたしが人形のように全てを受け入れることなのだろうか。あたしは思い切って言ってみた。
「いくら約束であっても、事情によっては守れないことはない? ケータイなくしてたんだけど、それでもあたしが悪いの?」
相応の理由なく叩いたのだから、ヒロはあたしに謝らなければならない。――こういう展開を読んだ。
もっとも、実際に謝ってほしいと思ったわけではない。ヒロは普段「女は男に従うべし」と考えているのだから、女のあたしに謝ることなど期待できるはずもなかった。
あたしだって怒ることはあるのだ。ヒロに分かって欲しかった。そして、そういう自分を確認したくもあった。
ヒロはあたしを抱きしめたまま、また耳元で言った。
「いつ、何でなくしたの」
こう言われると、あたしは答えに窮した。本当のことは言えない。
ヒロは上体を反らし、あたしを見据えた。あたしの表情から、微妙に風向きが変わったのを悟ったらしく、余裕を持ったようだった。ヒロは
「なくしたなら、なくしたことを教えてくれなきゃ」
ごめんなさい。いつものあたしなら、こう言ったはず。でも、踏ん張った。
「どうやって? 家に電話できないでしょう」
あたしの声は震えていた。
ヒロは一瞬言葉に詰まったけれども、それを誤魔化すかのように息を吸い込み、
「塾の前で待っておくとか……。愛する人のためだったらできるだろ」
あたしは言葉を返せなかった。
「ある男に携帯電話は壊された。その男に酷い目に遭わされた。それをヒロに言ってどうなるの? 解決できるの? あたしにはあたしの事情があるの。それを簡単に「愛」なんて言葉で否定しないでほしい」
心のなかで、こう意識したとき、あたしはやはり自分を弁護したくなった。踏み付けにばかりされたくなかった。あたしは言った。
「ケータイ、いつのまにかなくしてたの」
「それさっき聞いた。で、……何してて?」
ヒロは気のない返事をした。話はほぼ終わったと思っていたようだ。
「ナンパって言うのかな、付きまとわれてた」
「誰に」
ヒロは急に真剣な顔付きになって、あたしを見た。