第50話

文字数 1,136文字

「てめえの母ちゃんがいいって言ってんじゃないか」

あたしは刹那にたじろいだ。何と言ったのか。

「嘘だ」

あたしは、はっと気付いたように否定した。

「あとで自分で確かめろ」

こう言ったきり、武男はあたしの身体に舌を這わせた。

お母さんが? まさか。けれども、無軌道な母親なので、完全には否定できない気がした。

あり得るかも――こう思うと、あたしは力が抜け、無防備になった。

しかし、しばらくして武男の手が陰部を触ろうしたときの不快感が、あたしに正気を取り戻させた。

「お母さんが決めることじゃない」

あたしは抵抗した。手で押し返そうとした。両足に力を入れて腰を浮かし、体位を入れ替えようともした。しかし、ことごとく封じられた。

もがくなか、怒りが湧いた。どいつもこいつも。こんなぐうたらな居候が。おもちゃみたいに対しやがって。何であたしばかりがこんな目に。――こんな思いがどっと胸に押し寄せた。

武男はあたしにキスをしようとした。あたしは怒りを込めて、目の前にある鼻に噛み付いた。嚙みちぎるくらいの勢いで。

「ぐあっ」

武男は鼻を押さえて飛びあがった。あたしは跳ね起きた。乱れた服を大雑把に整えた。

すぐに逃げようと思ったが、武男は出口の前に立っていた。あたしはその横を走り抜けようと、前進しかけた。武男は鼻を押さえながら、半歩動いてあたしを牽制(けんせい)した。

武男はううっと唸って、あたしを睨み付けていた。その目には、

「痛いからじっと(こら)えているけれど、だからといって逃がさないぞ」

こんな意思が光っているようだった。

武男がダメージを受けたのは見れば分かるけれども、身動きできないほどではないとも理解していた。どうすればいいのかと考えたとき、ゆきちゃんの行動を思い出した。窓を開けて叫べばいいのだ。

武男は鼻を押さえていた手を放し、自ら見た。血が付いていないか確かめたのだろう。

血は付いていない。けれども、鼻は赤く滲んでいた。

あたしは振り返って、窓を開けた。

「てめえ」

武男は飛び込んできた。あたしは反射的に両手を真っすぐに突き出した。掌底(しょうてい)が武男に当たった。目を(つむ)っていたので、どこに当たったのか定かではないけれど、顔のどこかに痛撃を加えることになった。武男はよろめいて、二、三歩後退した。

武男は激怒するだろう。あたしは色々な意味でめちゃくちゃにされるはずだ。窓の外に向かって叫ぶなどと悠長(ゆうちょう)なことを言っている場合ではない。

飛び降りるしかない、と思った。そうすると骨折するかもしれない。しかし、人目があれば誰かの助けを期待できる。

あたしは窓の外を見た。真下にハイルーフのバンが()まっていた。何もないよりもはるかにましだ。怖気付(おじけづ)く前に、頭を真っ白にして、あたしは飛んだ。あたしが額縁を超えた瞬間、武男は飛びかかってきていた。
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