第85話

文字数 1,087文字

「あんまり聞き分けが悪いとよそに売るよ」

ヘグ婆はあたしに言った。

「ドブネズミや油虫と過ごすようなゲテモノ小屋に行きたいかい」

ヘグ婆は続けた。

娘を裸にし、手足を縛り、その身体に蜂蜜やバターを塗ってネズミやゴキブリを這わせる。針で突く。ナイフで薄皮を()ぐ、または身を()ぎ落とす。爪を抜き取る。ネズミにかじられたところが化膿しても、薬などもらえない。全身に膿が回り、高熱が出て、いよいよ死にかけると、また別のところに売られる。

そこは墓場と同じ。腹を裂かれ、使える臓器を取り出され、残った身体は豚のエサにされる。

「そういう目に遭いたいかい」

あたしは返事ができなかった。いまの自分の状況を考えていた。借金のかたとして売られる。偽弁護士の登場。監禁。これらを並べた話を、もしも他人から聞かされたとき、あたしはどう思うだろう。作り話だと思うに違いない。けれども、それはいま現実として目の前にあった。

ヘグ婆の話も、あたしを脅すための作り話ではないかと疑ったけれども、作り話だと断定するだけの根拠がなかった。

「あたしの前にも女の子がいたの」

あたしは訊いた。喉をうまく調整できず、声はかすれた。

「いたとも。ここを使ってたよ」

ヘグ婆は床を指差した。

「いまその()は……」

あたしが訊いても、ヘグ婆は意味ありげに笑みを浮かべるだけだった。

あたしは前にも後にも動けなかった。ヘグ婆はそんなあたしを見ながら襖戸を閉め、鍵をかけた。あおり止めを鍵にしていた。

襖戸の向こうで、ヘグ婆の階段を下りていく音がした。その音が途切れたあとも、あたしはじっと立っていた。

「誰かが助けにきてくれないか」

母の顔とゆきちゃんの顔とが頭に浮かんだ。しかし、母には期待できなかった。警察で娘が家を出る理由についての心当たりを問われ、まともに答えられるとは思えなかった。

ゆきちゃんはどうだろうか。しばらくは寝込むに違いない。けれども、少し恢復(かいふく)すれば、あたしのことが気になるはずだ。そうすれば、連絡を取ろうとするだろう。もちろん、連絡は取れない。そのとき、どうするのか。

不審に思い、何か行動を起こすのか。それとも、あたしからの連絡を待つのか。しばらく待って、それから動くのか。あるいは、さらに待ち続けるのか。待って動くとすれば、いつ動いてくれるのだろうか。

何も確かめることができず、すべて頭のなかだけで考えるので、思考はあらゆる形に変形した。あたしはそんな不安定に耐えられず、どうにか先を見通そうとしたけれども、結局は堂々巡りを繰り返すだけだった。

気付くと、あたしは檻に閉じ込められた動物園の熊のように、部屋のなかをうろうろしていた。


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