第74話
文字数 1,209文字
「与田先生」
あたしは呟くように言った。名刺には『人権弁護士 与田蒼 』と書かれていた。あたしは不思議そうに名刺を眺めていたのだろうか、与田は弁解するかのように自己紹介した。
「自分は女性の人権を徹底的に守るので敵が多く、ストーカーや大企業の上司みたいな奴は何をするか分からないので、連絡先は教えないんですよ。奴ら……というか、彼らはどこから襲撃してくるか分かったもんじゃないんで。マジで刺されたこともあるんですよ」
与田は笑って歯を見せた。歯冠が短く、溶けているようにも、欠けているようにも見えた。脂 がたっぷり付いているらしく、黒ずんでもいた。
あたしを凝視するように見る、その見方は印象が悪かった。弁護士という仕事柄、人をじっくりと観察する必要があるのかもしれないけれども、値踏みするかのようにじろじろと見られるのは気持よいものではなかった。
「ここに来ること、誰にも言ってない?」
ユウヤが訊いた。あたしは言ってないと答えた。ユウヤは満足そうに頷き、続けた。
「実は、事情が変わったんだ」
ユウヤは急に困ったような顔をした。
「どういうこと」
「警察から連絡があって、これからすぐ刑務所に入ることになった」
「え? 何で」
「理由は分からない。国 のやることだから」
「え、じゃ、あたしはどうなるの」
「怜佳は先生と一緒に裁判所に行って。先生は俺の代理だから」
「え、じゃ、ユウヤは……」
この直後から別行動をするのか、と訊きたかった。
「手続きのうえでは問題ありません。裁判所には弁護士である僕から言うので」
与田が割って入った。
「そうですか……」
「とにかく急がないと。乗って」
与田は車の後部のスライドドアを開けた。
あたしは、これでいいのかと、少し足踏みした。
ユウヤは反省して刑務所にまで入ろうとしているのだから、と頭では分かっていても、ゆきちゃんに関するわだかまりは、やはり心の底に沈んでいた。そのうちの、せめて一言二言でもユウヤに投げてやりたいと思っていた。けれども、ユウヤのペースで話が運ばれてしまっていて、その機会がないどころか、ユウヤはあたしの気持ちに触れようとする素振りさえ見せなかった。あたしがおぼろげにも想定していた段取りは、あたしが不満を言い、ユウヤがいま一度詫びる。それから裁判所へ行くというものだった。
「あのさ、あたし言い……」
あたしが話そうとすると、ユウヤは言った。
「早く乗って。無理にお願いしたことなんだから、遅刻したり、行かない、なんてことになると、罰金を払わないといけなくなる。五十万なんて払えないよ」
「五十万?」
もしあたしが原因で遅刻や欠席をすれば、その五十万円はあたしが背負わなければならないのだろうか。あたしは金額の大きさに思考が引っ張られ、頭のなかが浮ついた。我が家は金銭的に苦しかった。そのことを小学生のときには理解していたので、お金の話になると、まず支払回避の途 を探るのが、あたしのほぼ習慣になっていたのだ。
あたしは呟くように言った。名刺には『人権弁護士 与田
「自分は女性の人権を徹底的に守るので敵が多く、ストーカーや大企業の上司みたいな奴は何をするか分からないので、連絡先は教えないんですよ。奴ら……というか、彼らはどこから襲撃してくるか分かったもんじゃないんで。マジで刺されたこともあるんですよ」
与田は笑って歯を見せた。歯冠が短く、溶けているようにも、欠けているようにも見えた。
あたしを凝視するように見る、その見方は印象が悪かった。弁護士という仕事柄、人をじっくりと観察する必要があるのかもしれないけれども、値踏みするかのようにじろじろと見られるのは気持よいものではなかった。
「ここに来ること、誰にも言ってない?」
ユウヤが訊いた。あたしは言ってないと答えた。ユウヤは満足そうに頷き、続けた。
「実は、事情が変わったんだ」
ユウヤは急に困ったような顔をした。
「どういうこと」
「警察から連絡があって、これからすぐ刑務所に入ることになった」
「え? 何で」
「理由は分からない。
「え、じゃ、あたしはどうなるの」
「怜佳は先生と一緒に裁判所に行って。先生は俺の代理だから」
「え、じゃ、ユウヤは……」
この直後から別行動をするのか、と訊きたかった。
「手続きのうえでは問題ありません。裁判所には弁護士である僕から言うので」
与田が割って入った。
「そうですか……」
「とにかく急がないと。乗って」
与田は車の後部のスライドドアを開けた。
あたしは、これでいいのかと、少し足踏みした。
ユウヤは反省して刑務所にまで入ろうとしているのだから、と頭では分かっていても、ゆきちゃんに関するわだかまりは、やはり心の底に沈んでいた。そのうちの、せめて一言二言でもユウヤに投げてやりたいと思っていた。けれども、ユウヤのペースで話が運ばれてしまっていて、その機会がないどころか、ユウヤはあたしの気持ちに触れようとする素振りさえ見せなかった。あたしがおぼろげにも想定していた段取りは、あたしが不満を言い、ユウヤがいま一度詫びる。それから裁判所へ行くというものだった。
「あのさ、あたし言い……」
あたしが話そうとすると、ユウヤは言った。
「早く乗って。無理にお願いしたことなんだから、遅刻したり、行かない、なんてことになると、罰金を払わないといけなくなる。五十万なんて払えないよ」
「五十万?」
もしあたしが原因で遅刻や欠席をすれば、その五十万円はあたしが背負わなければならないのだろうか。あたしは金額の大きさに思考が引っ張られ、頭のなかが浮ついた。我が家は金銭的に苦しかった。そのことを小学生のときには理解していたので、お金の話になると、まず支払回避の