第109話

文字数 1,068文字

「きれいな脚」

男は独り言のように呟いた。それから一息吐くと、男は雑談をした。雑談と言っても、あたしはほとんど話していない。男が勝手に話していた。記憶に残っているのは、男が自らの理想の女性について語っていたことくらいだ。世間での振る舞いかた、家庭での所作、男性に対する態度など、細かく話していたように思う。

「出しゃばるな。一歩退がって歩け」

あたしには、こう言った。

話が終わると、男はあたしを抱いた。

どうしてこんな目に、などと考えると、理不尽が際立つ。しかも、その理不尽を取り除けないという不条理も際立ち、苦痛が増す。だから、あたしは「他人」になった。自分の身のうえに起こっていることではない、と考えるようにした。既に身に付いている(すべ)だ。それは必要に迫られての構えかただった。けれども、心を枯らすのではないかという漠然とした不安は常にあった。

取り巻く環境も少しずつ変わっていった。

ある日から、部屋に鍵がかからなくなった。おまるもなくなり、自由にトイレに行けるようになった。

食事は粗末になった。変な臭いのするおにぎりと沢庵漬けだけという日もあったし、食べさせてもらえないこともあった。

日付の感覚もなくなった。極端に寒い日があるので、冬なのかもしれないと考える程度だった。外の光が入ってこないので、時間は分からなかった。一階が騒がしくなるので、そのときは時刻を大雑把に察することができた。

一階が騒がしくなると、あたしは緊張した。今日は男が来るのだろうか、来るとすれば、どんな男だろうか、と。半日、神経を擦り減らした。

他人になり、何も考えないはずなのに、禁断症状の如く「逃げたい」という感情に支配された。

逃げたい。でも、逃げられない。

それでも逃げたい。逃げたい。逃げたい。逃げたい。

何度も禁断症状を繰り返していると、ときどき自分でも理解できないことが起こった。

「お前、何してるんだ」

あるとき、突然髭男に声をかけられた。

何をしていたのだろう。あたしは廊下で考える。分からないので、訊き返したい。

「部屋に入ってろ」

髭男は少しあきれた表情であたしに言った。

あたしが部屋に入り、戸を閉めたとき、ちょうどヘグ婆があがってきたようだ。

「どうしたんだい」

「汽車だって」

「あん?」

「『あたしは機関車、シュポ、シュポ、シュポポー』てホザきながら、ここを行ったり来たりしてやがんの」

「そいつは傑作だ。とうとうイッちまったか」

「そんなとこだろ」

二人の会話を聞いて、あたしは戸惑った。全く自覚がなかったのだ。恐らく、髭男が面白がって、適当なことを言ったのだろうと思った。

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