237. 人を殺すパン:1600-1789

文字数 1,235文字

 1789年7月、バスティーユ牢獄が襲撃された。

 革命は一晩で為されなかった。

 1600年出版『農業経営論』は農業改革を謳ったが、実践は150年以上先で、フランスの農民は17世紀になっても中世さながらの農業を続けていた。

 土地を耕し、穀物を植え、痩せたら休ませる。
 穀物と葡萄だけを栽培し、ハンセン病患者の変形した手足のようなジャガイモを拒絶する。

 パン、パン、パン!
 葡萄酒。
 それ以外は、食べ物ではない。

 地主や貴族は貧困者を「畜生」と関わらなかった。
 飢饉を減らす農業より、外貨を獲得する織物に興味津々だった。

 1693-94年の冬、飢饉が起きた。
 イングランドのように常食の多様化、輸入ルートの開拓、農法改革が推し進められることはなく、蔓延した疫病と共に1/10の国民が死んだ。

 大寒波、ハリケーン、隕石のように、飢饉は天災と同義だった。
 為政者の失策ではなかった。

 1715年、啓蒙思想の時代が始まるも、農業は変わらなかった。
 批判飛び交えど、変わらなかった。

 1730-39年、気候は恵まれていた。
 1739-42年、子どもが寒さで死んだ。雪解けの洪水で耕作地は水浸しだ。降り過ぎる雨が、穀物も葡萄も害した。

 人は増えすぎた。
 土地は切り刻まれ、集約農業は興らなかった。
 落ち穂拾いの権利は剥奪され、重税と賦役(ふえき)は重なる一方だ。

 ラーキ山噴火が冷夏をもたらし、飼料不足で何千頭の家畜が投げ売りされた。
 浮浪者が農家の戸を叩き、食べ物か略奪か選ばせる。
 軍隊が我が物顔で穀物倉庫を空にした。

 1787年、豊作の年、政府が輸出を奨励した。
 1788年7月、日照りの末、直径40センチの雹が穀物も葡萄も家屋も叩き潰した。

 政府は急いで穀物の輸入を試みたが、足らなかった。
 備蓄はなかった。
 外の戦争が輸入を妨げた。

 スペインが輸入を止め、職工の仕事は消えた。
 ファッションの風向きが変わり、絹織物職人は稼げなくなった。
 イングランドから機械製の布地が安価で流れ込み、約36000人が失業した。

 飢えた農民が都会に押し寄せる。

 パン、パン、パン……。

 1789年3月、暴徒が市場を襲った。
 暴動は散発的に発生し、市民は怒れる農民を恐れ、農民は穀物を奪う市民を恐れた。

 1789年7月、穀物輸入を試みた大臣が解任される。
 牢獄は破られた。

 暴力が吹き荒れる。

 日照りは続き、穀物価格が急騰する。
 封建制度への忍耐は、明日も明後日も食べられない……絶望の末に、ついに崩壊した。

 たくさん飢えて死んだ。
 それより少なく、けれど少なくない人数、処刑した。

 これが穀物に頼った結末か。
 狩猟採取生活を続けていれば、豊かだったろうに。
 現代のような、物質と多様性と強欲に溢れた社会には発展しなかったか。

 現代は、餓死者の山頂に築かれ、肥えた連中が支配する。
 なんだ。
 何も変わっていないじゃないか。

 餓死者数も死亡率も圧倒的に下がれども、根本的には、何も変わっていないのだろうか?
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