251. 科学者という動物、私達という動物
文字数 1,676文字
犬、猫、鶏、蛸、マウス、アカゲザル、ウマ、カササギは、喜び、悲しみ、怒り、苦痛を感じている「かのように」振る舞っているだけで、彼らは似非科学的な観察者が勝手に擬人化し、自分の感情を投影する「まっ白なキャンパス」に過ぎない。
情動はない。
モノ。
だから、何をしても構わない。
データを得る為に、年に2万匹以上猫を殺すべきだ。
彼や彼女でなく、無機的に「それ」と呼ぶべきだ。
一歩も歩けない檻に一生閉じ込めるべきだ。
母ザルから子ザルを引き離すと、どうなるかしら?
マウスの夫婦のうち、妻を虐待して夫にその苦しみ暴れ狂うさまを見せつけた後、夫も虐待したら、苦痛はより敏感になる?
スタンガンで人が感電死したら株価暴落か……ブタに電極を取り付けて、この電圧なら……もっといける? まだ死んでない、もっと……。
戦争と恋愛と科学的発展の為なら、すべて赦される。
すべてだ。
他の動物を紹介しよう。
自動車に轢かれたアカゲザルの子供を助けるために、数百匹のアカゲザルが道路を封鎖した。
負傷した小熊――自力で餌がとれない――に、利他的に餌を運ぶ別の子熊。
三匹のライオンが、涙を流すヒトの女の子を誘拐犯から救う。
より賢く、高尚で、優れた動物はどちらだろう?
そんなものがいるならば。
あなたはどちらを愛しますか?
この質問は、陰湿だ。
実験対象の猫にひそかに名前をつけ、研究の為に殺し――その日、やんちゃな彼が静かに「どうしてボクなの?」と見つめてきたその真っ直ぐな瞳が忘れられず、二度と実験対象を痛めつけないと決心した科学者が、動物たちの心の科学を本にする。
カザノワシは38回の攻撃の中で、若者のワシを1500回以上つついた。好物のカシューナッツをお預けにされたヨウムは不快を示し、目を細め、羽根を膨らませ、頭を低くする。子どもを叩き、年老いた弱者を痛めつけ、メスにまとわりつく卑劣なヒヒ。
自分で結論を導いたと錯覚させるためだけの問いに、騙されるな。
それは、物語の悪徳に過ぎない。
人道とかいう無様なものの前提。
情動と認知が備わる動物(注釈:以後注釈は入れないが、ヒトも含む)に接する場合、敬意を胸に抱くこと。
身勝手な欲望の為に、搾取の対象にしてはならない。
ヒト同士でも同国人同士でもクラスメイト同士でも殺し合い憎み合い奪い合っているのに、いわんや他の動物に対しては。
たこわさ好きの酒飲みが蛸の夢の中身を知りたがるか。
口に針を突き刺され、吊るし上げられ、自重に苦しむ鮎の痛みを、釣り人が想像したがるか。
スーパーの卵が高いと毒づく主夫が工業的畜産――泥と自分の排泄物と共に身動き一つとれず生涯暮らす鶏の悲哀に興味を持つか。
無知のほうがラクなのに。
自分の快楽、あるいは隣人の幸せだけを願う私達という動物が、自分のペットやお気に入り動画のカワイイ子以外の動物(食べ物)を隣人に迎え入れ、自分の快楽と引き換えに罪悪感に浸るか。
まるで普通の人を非難しているが、君が動物の痛みに共感するのは君の「身近」だったからで、普通の人が動物の福祉に無関心なように君が無関心な他の悲劇について、自発的に調べたことはあるか。
存在を知らないからか、責任を持たないからか、自分の行動が凶器と実感できないからか、改善方法が楽にわからないからか、高コストと判断したからか。
愛せないからか。
そのすべてか。
それでも十年後、百年後、動物たちの苦しみが少しでもましに、少しでも癒えるように、動物を愛する科学者たちは研究を続け、一般向けの書籍を記し、知識を高めようと高めてもらおうと奮闘する。
いつか理想に届くように。
先人が築いた砂山の上に、一掴みの砂を載せる。
幾度となく波が押しよせようとも。
何度平らに
それを哀れと
どうせ何も変わらないと。
嗤う。
所詮、何も変わらない。
労働が疎外化され、距離が遠のく限り。
それでも変わると信じてみたい。
この寓話を、砂山の上に、一粒未満の砂として、恐る恐る載せる。
無力さと偽善を痛感しつつ。